7 述而第七 33

Last-modified: Sat, 27 Jan 2024 19:47:10 JST (90d)
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☆ 述而第七 三十三章

 

 子曰 若聖與仁 則吾豈敢 抑爲之不厭 誨人不倦 則可謂云爾已矣 公西華曰 正唯弟子不能學也

 

 子(し)曰(いは)く、聖(せい)と仁(じん)との若(ごと)きは、則(すなは)ち吾(われ)豈(あに)敢(あへ)てせんや。抑(そもそも)之(これ)を為(まな)んて厭(いと)はず、人(ひと)を誨(をし)へて倦(う)まざるは、則(すなは)ち云爾(しかいふ)と謂(い)ふ可(べ)きのみ。公西華(こうせいくわ)曰く、正(まさ)に唯(ただ)弟子(ていし)学(まな)ぶこと能(あた)はざるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 聖人とか仁者というのは、本当に人格の完成した人であり、乱れたこの世をも救うことのできる万能の人のことを言います。私(わたくし)如(ごと)きにとても叶(かな)うことではありません。勿論私はその境地に至らんことを願って、自(みづか)らできる精一杯の努力をし続けています。

 一つは、聖人仁者の道を常に学び実践をしていながら、この困難な作業を全く嫌には思いません。寧(むし)ろこの苦しみが成長に繋がることがわかるので、却って嬉しいくらいです。

 今一つは、教えるということです。聖人仁者の道は、独りで歩む道ではありません。皆が幸せになるための道ですから、自分の学んだことや、実践を通して解ったことは、皆に伝えることが必要です。吾(わ)がさえ善ければ善し、では聖人仁者の道から外れてしまいます。

 自分にとっては解りきったことを相手に解るように懇切(こんせつ)叮嚀(ていねい)に教える、ということは実に骨の折れることで、厭(いや)がる人が多いようですが、私はそれでうんざりしたことなどありません。相手が中々理解しないのは私の伝え方が悪いのであって、上手く伝えることさえできれば、その人が成長してくれるのです。こんな嬉しいこと楽しいことが他にありましょうか。

 その上、他人(ひと)に教えると、自分では解っていた心算(つもり)で実は曖昧であったことが解り、改めて自分がより明確に理解できる、というようなことも起こります。また、教えている自分の言葉に改めて自分が教わりながら一緒に考えて理解を深めていく、ということも起こったりします。教えることは、自分の為にもなるのです。それ故に、教えることによって、聖人仁者の道を大きく進ませることができるのです。

 私は聖人仁者になりたいから、乃ち聖人仁者ではないから、学び実践することと教えることに徹しようと努力しているのです。私にできているのは唯この二つのことだけしかありません。それは聖人や仁者の姿ではありませんが、それを目指して努力をし続けている、ということは認めても善いのかも知れませんね。

 それを聞いていた弟子(でし)の公西華(こうせいか)(公西赤(せき))が、要(い)らぬことを言いました。

 先生のしておられる、学び実践し続けて嫌にならず、どんなに繰返し教えてもうんざりしない、というそのことこそが本当に凄(すご)いことであって、私達弟子どもにはとても学ぶことができないことなのです。

 それを聞いた先生は、一寸(ちょっと)がっかりして言われました。

 学べないとかできないと思うことは、自分を駄目だと決めつけている、ということですよ。やる前から自分の限界を決めつけていては、如何(どん)なことも成長は覚束(おぼつか)ない限りです。先づ死ぬ気でやってみて、それでもできなかったときに初めて言える言葉ですからね。(雍也第六、十章参照)

 

☆ 補足の独言

 正直なところ、この章は、読めば読むほど面白くなくなってきました。孔子の言葉のようであって孔子ではない、という感じです。他の孔子の言葉を寄せ集めて、さも孔子が又こう言ったかの如くに捏(でっ)ち上げ、公西華にお追従(ついしょう)を言わせている、と思えるのです。先生がこんなことを言われて喜ぶ訳がないでしょう。却って嘆き悲しむだけです。この、程度の低いお追従は公西華の言葉ではなく、この捏造(ねつぞう)者の言葉に違いない、と思います。ですからそれを諫める孔子の言葉がないのではないでしょうか。
 それからもう一つ。この文章には、何か孔子らしくない傲慢さが、そこはかとなく臭います。訳すのにこの臭いを消すことに努力はしたのですが、上手くいきませんでした。スンマセン・・・