7 述而第七 7

Last-modified: Fri, 25 Aug 2023 14:07:50 JST (251d)
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☆ 述而第七 七章

 

 子曰 自行束脩以上 吾未嘗無誨焉

 

 子(し)曰(いは)く、束脩(そくしう)を行(おこな)ひて自(よ)り以上(いじゃう)は、吾(われ)未(いま)だ嘗(かつ)て誨(をし)ふること無(な)くんばあらず。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 人は一人々々皆大切です。出自(しゅつじ)や地位財産などで価値が決まるものではありません。私が大切にしているのは、遣る気と努力です。幾ら才能があって家柄が良くても、遣る気のない者は、物になりません。本人に学ぶ気が有るか如何(どう)かです。本気で学びたいと望んでいる者は、必ず正式な手続きを踏んで挨拶(あうさつ)に来ます。そこに本人の遣る気度が表れていますから、それで善いのです。金額や品物等(など)は関係ありません。

 このようにしてやって来てくれた者に対して、私は一度たりとも教えなかった試(ため)しはありません。

 

☆ 補足の独言

 束脩(そくしゅう)というのが何か、色んな説があって解りませんが、一般的な説に従うと、一番安い入学金、と考えて良さそうに思えます。払い続ける月謝とは違うでしょう。一回こっきりの安い物でしたら、どんなに貧乏であっても何とか工面(くめん)できるものです。それを、銭(かね)がないから勉強をあきらめた、というような根性のないことでは、この学びの道にはとてもついてはいけないと思われます。

 余談になりますが、明治時代の信州長野の偉大な教育者に、五無斎(ごむさい)本名保科百助(ほしな ひゃくすけ)という人がおられましたが、彼は孔子と同じようなことをしたようです。小学校の教員校長を歴任する中で、総ての子供を公平に扱ったのだそうです。その為に被差別部落の子と家(うち)の子を一緒にするのか、と糾弾されて首になったのだそうです。(本当は左遷され、後(のち)に自分からやめたのですが。)そして、貧乏でかねがなくても勉強できるように、と私塾を開きましたが、月謝は払えるだけで良いとしたところ、殆(ほとん)ど金が集まらず二三年で廃校になってしまったそうです。理想の実現は難しいものですね。