7 述而第七 8

Last-modified: Wed, 06 Sep 2023 17:15:48 JST (240d)
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☆ 述而第七 八章

 

 子曰 不憤不啓 不悱不發 擧一隅不以三隅反 則不復也

 

 子(し)曰(いは)く、憤(ふん)せざれば啓(けい)せず。悱(ひ)せざれば発(はっ)せず。一隅(いちぐう)を挙(あ)げて三隅(さんぐう)を以(も)って反(はん)せざれば、則(すなは)ち復(ふたた)びせざるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 「一生懸命一生懸命考えても納得のいく回答が得られず、それでも決して諦めず何とか答えを見付けようともっと発憤(はっぷん)して悶(もだ)え苦しんで答えを見出だそうと努力をし続ける、というようでなければ、私は教えの手を差し伸べて助ける、というようなことはしません。そんな甘いことが通ると自分で真剣に考え対峙(たいじ)していくという力が身に付かず、成長ができなくなるからです。

 そして、何とか解った感じがするのだけれど、間違いなく確かな手応えを掴めてはいるのだけれど、それを表現する明確な言葉が見付からない。明瞭(はっきり)表現したいのに「あゝ」「うゝ」「えゝ」しか出なくて、自分がもどかしくて堪(たま)らない。そこまで精神的に自分を追い詰めるようでなければ、一寸(ちょっと)した示唆(しさ)を与えてその人の心を拓(ひら)くというような手伝いはしてやりません。そうやって自分で能く考えて理解実践できる力を身に付けていくことが大切だからです。」

 と私が言っていた、という噂がまことしやかに流れているようですが、これには私は些(いさゝ)か閉口しております。厳しさの裏には愛が必要ですが、得てして厳しさは傲慢な心を生ぜ使め易いものです。厳しさが傲慢になってしまっては教育の崩壊です。教えを求めてやって来る総ての人に対して懇切叮嚀に教えを紐解(ひもと)いていく、これが教育の基本精神です。

 「憤(ふん)せざれば啓(けい)せず。悱(ひ)せざれば発(はっ)せず。」等(など)と言っていては、顔回と子貢以外は全て切り捨てられることになってしまいます。大切なのは「憤(ふん)すれば啓(けい)し、悱(ひ)すれば発(はっ)す」ということなのです。それが教える上で最も大切な時宜(じぎ)ということは言えますが、そうでなくても教わりたいことを教わる、教えたいことをその人の力量や状況に合わせて惜(お)しみなく教える、これが教育というものです。

 また、部屋の一角(いっかく)が示されれば、即座に残りの三隅(みすみ)が了解できて部屋の全体が把握できるようでなければ、それ以上は彼には無理だから教えない、等と私が思う訳がありません。そんな理解力を示せるのは、沢山の弟子の中でも顔回と子貢くらいのものでしょう。誰もがそういうことができるようになるために、一人々々の特性を鑑(かんが)みてそれぞれに解るように懇切叮嚀に教えているのです。

 教育は優秀な者だけを相手にしてその才能を伸ばすためのものではありません。学びたい者、遣る気のある者が、等しく成長の機会を得られるためにこそあるのです。

 

☆ 補足の独言

 この章の内容は、優秀な奴しか相手にしないぞ。無能な奴は来るな、と言っているようです。「憤(ふん)すれば啓(けい)し、悱(ひ)すれば発(はっ)す」という深い愛情が、否定型で表現された為にこうなってしまったのでしょうか。得てしてエリートというものは、何でも否定して自己主張をしようとするものです。否定しさえすれば格好良いという三歳児的な錯覚から抜け出られないところがあるようです。

 こんな誤解をされて、孔子は困り切っているだろうな、という思いを訳にしてみました。