1 学而第一 7

Last-modified: Tue, 08 Jun 2021 10:13:19 JST (1060d)
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☆ 学而 第一 七章

 

 子夏曰 賢賢易色 事父母能竭其力 事君能致其身 與朋友交 言而有信 雖曰未學 吾必謂之學矣

 

 子夏(しか)曰く。賢(けん)を賢として色(いろ)に易(か)へ、父母に事(つか)へて能(よ)く其(そ)の力を竭(つ)くし、君(きみ)に事へて能く其の身を致(いた)し、朋友(ほういう)と交(まじ)はり、言ひて信有らば、未だ学ばずと曰ふと雖(いへど)も、吾は必ず之(これ)を学びたりと謂(い)はん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 子夏が言いました。

 賢者(けんじゃ)に対しては、その叡智(えいち)の素晴らしさを、美しい女の人に恋い焦がれるように慕(した)い学び、父母に対しては、力の限りを尽(つ)くして孝行し、君主に仕(つか)えるときには、身を捧げて尽力する。

 そして、友と付き合うときには、誠実な発言で以て責任感が強く皆からの信頼を得ているようであれば、譬(たと)え彼が「私は勉強していないから学がない」と言おうとも、私は必ずこう言うでしょう、「君(きみ)のしていることこそが学問なのだよ、君は立派な学者だ」と。孔先生が常々おっしゃっていたように、学問は知識ではなく実践だからだし、賢を好み愛し楽しむことが最高だからです。

 

☆ 補足の独言
 この章の始めは、仁や君子の道を修業していく上で、賢ということが大事だと伝えています。孔子にとっては、賢とは、最も敬慕(けいぼ)する周公(しゅうこう)旦(たん)やその父、文王(ぶんのう)のようなイメージの人と思われます。子夏にとっては勿論(もちろん)孔子のイメージでしょう。
 「賢を賢として色に易え」とは如何(どう)いうことか。論語全体の中でも特に解釈が難しい文章だそうですが、解らないなりに、こう勝手解釈をしてみました。
 賢は学識行動共に優れていることです。だから、賢を学ぶことは非常な困難を伴います。賢者から賢の薫陶(くんとう)を受けることは、苦行になるでしょう。でもそれではいけないのです。真面目に重く深刻になっては駄目です。軽く明るく楽しく、喜びをもってまなぶのです。そのためには、堅苦しいと思い込んでいる賢ジを変えなければなりません。イメチェンです。「賢は絶世(ぜっせい)の美女(自分が女であればイケメン)なのだ。しかも私を愛してくれている。私が求めさえすれば総てをくれる。もうメロメロで、こんな楽しいことはない。」このような思いで賢者から確(しっか)り学べている、という訳になります。

 この章は、偉大なる賢者への対応から始まって、次に父母、主君という目上の者への対応(父母と君への対応は殆(ほとん)ど同じとみてよい、と思います)、そして友達という同等な者に対する対応が説かれています。これらの総てが、私達が身につけていこうとしている仁の道なのです。そして最後に子夏が一番言いたいこと、皆に伝えたいことが披露(ひろう)されます。

 子夏は、孔子の弟子の中でも最も学者らしい真面目で慎重な人だったようです。ということは、学問は申し分なく身につけていたのでしょう。このような子夏に対して孔子は、安心して「学問は実践あるのみ」と繰返(くりかえ)し指導していたのでしょう。子夏は孔子から言われる通りに、苦手な実践を必死でやってきて、その正しさを実感していたのだと思われます。だから、実践ができている人が「未だ学ばず」と言っても、「君は間違いなく学んでいる、学者だと太鼓判を押す」とまで言っているのです。しかし恐らく孔子だったらこう言うでしょう。「君の言動、立ち振る舞いは申し分ない。これからは学問に打ち込んでいけば、世界が、人の心が、天の法則が、もっと深く広く明瞭に見えてくるでしょう。」(孔子はそう言って、嬉しそうににっこりと笑いました。)