3 八佾第三 10

Last-modified: Tue, 31 Aug 2021 10:56:19 JST (976d)
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☆ 八佾第三 十章

 

 子曰 禘自既灌而往者 吾不欲觀之矣

 

 子曰く、禘(てい)、既に灌(そそ)いで自(よ)り往(のち)は、吾(われ)之(これ)を観(み)るを欲(ほっ)せず。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 最も大きな祭りである「禘(てい)」は、天子がその始祖をお祭りするものであり、天子以外で唯一このお祭りが許されている魯国(ろこく)に於いては、魯の王さんが魯国の始祖周公旦(しゅうこうたん)とその出自(しゅつじ)の文王(ぶんのう)をお祭りする重要な行事です。先づは神降ろしのために大地に欝鬯(うつちょう)という芳香(ほうこう)の御神酒(おみき)を注(そそ)ぎますが、これを「灌(かん)」と言います。

 魯国に於いてこの禘の祭りが行われるときには、灌までは真剣に慎重に執り行われていて、まあ善いのですが、それ以降の進行は礼に外(はず)れていて、ええ加減ででたらめで心も籠もっておらず、とても私には見るに堪え得るものではありません。嘆かわしいことです。

 

☆ 補足の独言

 本来「禘(てい)」は天子のみに許されているお祭りなので、魯国で行われることがそもそもの間違いの始まりなのだ、と云う説があります。が、孔子はそうは思っていないのではないか、と思います。孔子にとって、最も尊敬する周公旦は、きっと天子と同格の存在であるはずです。「灌までは観れる」ということは、魯の国で文王と周公旦をお祭りするということが礼から外れていない、ということを意味することになります。その後(あと)の進行が礼に叶ってない、という歎きととる可きでしょう。