3 八佾第三 11

Last-modified: Fri, 02 Jul 2021 18:47:45 JST (1036d)
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☆ 八佾第三 十一章

 

 或問禘之説 子曰 不知也 知其説者之於天下也 其如示諸斯乎 指其掌

 

 或(ある)ひと禘(てい)の説(せつ)を問ふ。子曰く、知らず。其の説を知る者の天下に於(お)けるや、其(そ)れ諸(これ)を斯(ここ)に示すが如(ごと)きかと、其の掌(たなごころ)を指(ゆびさ)す。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る人が「禘(てい)」について説明を求めてきました。

 先生は、私に解ることではありません、と答えて、次のように言われました。

 禘は、天子の行う大きな祭りです。天子は人間界で最も偉大な人です。その天子の執(と)り行う祭りですから、天子以外には禘のことは誰にも解らないのです。つまり、禘のことを知っている人が居るとするならば、その人は世界の隅々まで知っていて、どんな些細(ささい)なことでも難(むつか)しいことでも、掌(てのひら)に載せて見るように簡単に理解して説明できることでしょうね。

 と自分の掌を指差して、にっこり笑って、煙(けむ)に巻(ま)かれました。

 

☆ 補足の独言

 孔子が禘の解説を明確に言うことができることは、前章のお話しからも明らかです。それなのに「知らん」と突(つ)っ撥(ぱ)ねるということは、正(ただ)しく説明をしても間違って理解されて誤解され、不味(まず)いことになる恐れがあるか、正しい答えを相手が故意に曲解して言質(げんち)に取り陥(おとしい)れようという魂胆(こんたん)か、と考えられます。ここでは質問者が誰と明瞭(はっきり)言わず、或る人とぼやかしています。ということは、名前を出すことが憚(はばか)られる地位のある人の、孔子を陥れる策略と考えてよいのではないでしょうか。だから孔子はこのような大袈裟な言い方をしてごまかしたのであろうと思います。