3 八佾第三 12

Last-modified: Sun, 04 Jul 2021 12:35:06 JST (1034d)
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☆ 八佾第三 十二章

 

 祭如在 祭神如神在 子曰 吾不與祭 如不祭

 

 祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くす。神を祭ること、神在すが如くす。子曰く、吾祭(まつ)りに与(あずか)らざれば、祭(まつ)らざるが如し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生は日頃、このように言われています。

 祖霊(それい)をお祭りするときには、その亡くなられて祭られている祖霊の方々が、現に今ここに、祭壇(さいだん)の中に居られるのだ、今ここに、私の直ぐ側(そば)に一緒に居て私達を守って下さっているのだ、という気持で、畏怖(いふ)と尊敬と感謝の念を持ってお祭りしなければなりません。

 氏神様(うじがみさま)をお祭りするときには、我々の大親(おおおや)である氏神様が、現に今ここに、祭壇の中に居られるのだ、今ここに、私の直ぐ側に一緒に居て私達を守って下さっているのだ、という気持で、畏怖(いふ)と尊敬と感謝の念を持って、氏神様をお祭りしなければなりません。

 そしてこの度(たび)は、先生がこのように言われているのをお聞きしました。

 私は氏神や祖霊を正しくお祭りすることで、心が安らぎ清らかな気持になれるので、できる限りお祭りを欠かすことのないように心掛けているのですが、時には退(の)っ引(ぴ)きならない用事で参加できないことがあります。そんな場合は、神様に非礼にならないように正しく手続きを行っているのですが、何か心が落ち着かなくて、お祭りをしていない、という気分になるのですよ。礼には叶(かな)っているのですが、身体(からだ)が祭場(さいじょう)にあって祭りを実践して、氏神や祖霊に会えているのではないですから、仕方がないですね。実践の大切さを痛感します。

 

☆ 補足の独言
 人は目に見えるものしか見えないようです。つい目に留まったものに囚(とら)われて、単純に決めつけ思い込んでしまうものです。見えているものも見ていない、と言った方が良いですかね。気になったものしか見ないのですから。
 何が言いたいのかと言いますと、孔子はこんなにも鬼神に対する親和性と畏敬の念を語っているのに、「鬼神を啓して遠ざく」(雍也第六、二十章)が「鬼神を遠ざく」と誤解されたりとか、(先進第十一、十一章の、)鬼(き)の前に生者に仕えろ、死の前に生を知れ、という強烈な言葉が余りにも印象的で、孔子は現代的な意味の合理主義者であると勘違いされている節(ふし)があります。論語を通して、孔子が如何(いか)に天を信じ鬼神を敬い、そのような心の世界を大切にしてきたのか、ということを自分の魂(たましい)で以て感じ取って戴(いただ)きたいな、と思う次第なのです。