3 八佾第三 13

Last-modified: Wed, 07 Jul 2021 11:40:41 JST (1031d)
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☆ 八佾第三 十三章

 

 王孫賈問曰 與其媚於奧 寧媚於竈 何謂也 子曰 不然 獲罪於天 無所禱也

 

 王孫賈(おうそんか)問ひて曰く、其の奥(おう)に媚(こ)びん与(よ)りは、寧(むし)ろ竈(さう)に媚びよとは、何の謂(いひ)ぞや。子曰く、然(しか)らず。罪(つみ)を天に獲(う)れば、祷(いの)る所無きなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 衛(えい)の国の辣腕(らつわん)政治家の王孫賈(おうそんか)が先生を訪(たず)ねてきました。先生は、衛の王さんである霊公(れいこう)と奥方の南子(なんし)の所は訪(おとず)れましたが、その家来である実力者の王孫賈の所には行く心算(つもり)もありませんでしたので。

 先生の人柄を知らず、人は皆自分と同じく金と権力が目的だと信じている彼が宣(のたも)うて言うことには、

 先生は、「奥座敷に鎮座(ちんざ)ましますだけの偉い神さんに媚(こ)びるより、竈(かまど)で実際に助けてくれる下っ端(ぱ)の神さんに媚びた方が御利益(ごりやく)がある」という俚諺(ことわざ)をご存知(ぞんぢ)ですかな。

 これを聞いて呆(あき)れた先生は、即座に言われました。

 それはとんでもなく間違った恐ろしい俚諺(ことわざ)です。奥座敷の大神様であれ、身近な竈(へっつい)の神さんであれ、自分の損得のために神さんに媚びて利用しようなどと、これは天に唾(つば)する危険な罰(ばち)当たりな行為です。こんなことをしていると、それは天を侮辱する行為と見做されて、祈る機会すら天から奪われてしまいます。すなわち、天の守りを喪失(そうしつ)する、ということです。こんな間違った危険な俚諺などに惑(まど)わされないようにお気を付け下さい。

 貴殿(あなた)はこの俚諺を、美しく韻(いん)を踏んで表現なさいました。私も同じ韻で以てお答えいたしましょう。

 本当に大切なのは、「奥(おう)でも竈(さう)でもなく、祷(たう)ですよ」と。

 私は霊公にも奥方にも誰にも媚びる気持は毛頭持ち合わせておりませんので、ご安心なされてお帰り下さい。

 

☆ 補足の独言

 この韻を踏んだ応酬(おうしゅう)には、詩人であり音楽家である孔子の面目躍如(めんもくやくじょ)たるものが見受けられ、改めて感服し、楽しくなる所です。