3 八佾第三 14
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☆ 八佾第三 十四章
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子曰 周監於二代 郁郁乎文哉 吾從周
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子曰く、周(しう)は二代(にだい)に監(かんが)みる。郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)なるかな。吾(われ)は周に従(したが)はん。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
周(しゅう)は先立つ夏(か)殷(いん)二代に亙(わた)る礼制度の在り方や実態を事細(ことこま)かに吟味(ぎんみ)検討(けんとう)して周の礼制度を制定しております。それは私の最も尊敬する周公旦(たん)の成された業績です。夏殷周の礼は、前(さき)にも述べましたように(為政第二、二十三章)、その本質は変わりません。それを実施(じっし)する上での細(こま)やかな配慮、心遣(こころづか)い、すなわち文(あや)がそれぞれ皆違うのですね。
周の文(あや)は本当に素晴らしいものです。春の若芽が萌え出づるように、明るく温かく生き活きと息づいて、美しきこと限りありません。
いつも華美を窘(たしな)め質素倹約を奨励(しょうれい)している私らしくなく、意外に思われるかも知れませんが、私はこの美しい周礼が最も好きです。ですから、この周礼に則(のっと)った在り方で自分を律して日々を過ごしているのです。
華美、豪華、華やかなことがいけないのではないのです。これらは動(やや)もすると心を忘れて、見てくれの見栄(みえ)に走って了いかねません。それがいけないのです。
周礼にはその儀礼の奥に心、思いやりがあって、調和のとれた美しさがあります。だから最高なのです。
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☆ 補足の独言
「巧言(こうげん)令色(れいしょく)、鮮(すく)なし仁」(学而第一、三章)という言葉も、巧言令色がいけないのだ、ととったのでは、言葉という形に囚われた形骸化した間違いになって了います。巧言令色は気を付けないと、心が失われ易(やす)いですよ、心が無いことこそがいけないことなのですよ、という孔子の基本姿勢が能く解るお話しですね。