3 八佾第三 15

Last-modified: Sat, 10 Jul 2021 09:17:48 JST (1029d)
Top > 3 八佾第三 15

☆ 八佾第三 十五章

 

 子入大廟 毎事問 或曰 孰謂鄹人之子知禮乎 入大廟 毎事問 子聞之曰 是禮也

 

 子(し)、大廟(たいべう)に入(い)りて、事毎(ことごと)に問ふ。或ひと曰く、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子(こ)を、礼(れい)を知れりと謂ふや。大廟に入りて事毎に問ふと。子(し)之を聞きて曰く、是れ礼なり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が初めて、魯の始祖周公旦(たん)を祭る大廟(たいびょう・みたまや)に入って、そのお祭りに携(たづさ)わったときに、係の先輩に、一つ一つのことを叮嚀(ていねい)に訊(たず)ねて教えてもらっていました。それを目撃した或る人が、鬼の首でも取ったかのように自分の無知を曝して言いました。

 度田舎(どいなか)の鄹(すう)という邑(むら)の小倅(こせがれ)は、礼に精通しているという噂(うわさ)だが、何だあの様(ざま)は。大廟(たいびょう)に入ったは良いが、なーんにも分からんで、一から十まで全部教えてもらっているではないか。背伸びしてええ恰好(かっこ)しよって。見られたもんではないのお。

 それを聞いた先生は靜かに言われました。

 これが礼なのですよ。礼は相手への配慮です。新参者は先輩を敬わねばなりません。先輩の教えを大切にし、知っていることも知らないことも正しく確認して後(のち)に、初めて行動ができるのです。解っているからといって確認もせずに直ぐ行動するのは、不遜(ふそん)で傲慢(ごうまん)な態度であり、それこそが礼に反するのです。

 

☆ 補足の独言

 私達は、自信がないほどに少しでも知っていることがあると、知っていることを皆に認めてもらおうとして、先走って行動してしまいがちです。そして赤恥(あかはじ)を搔(か)くという経験は、ない人の方が少ないくらいではないでしょうか。

 孔子は若い頃から信念を有(も)って学に励(はげ)んできたのでしょう。「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。」(為政第二、四章)の言葉通りに、学への研鑽を徹底的に積み重ねてきたのだと思います。それによって自然に滲(にじ)み出てくる安定感、それが孔子の纏(まと)っている自信の実態なのではないでしょうか。