3 八佾第三 16
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☆ 八佾第三 十六章
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子曰 射不主皮 爲力不同科 古之道也
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子曰く、射(しゃ)は皮(まと)を主(しゅ)とせず。力(ちから)は科(しな)を同(おな)じくせざるが為(ため)なり。古(いにしへ)の道(みち)なり。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
君子という心の大きな人間になるためには、六芸(りくげい)という六つの科目を確(しっか)りと修めることも大切なことです。六芸とは「礼(れい)・楽(がく)・射(しゃ)・御(ぎょ)・書(しょ)・数(すう)」の六教科です。その中の射では競技も行います。今でも盛んに行われている競技ですが、今では技(わざ)と腕力に勝(すぐ)れた者が勝つ競技になってしまっています。しかし本来は違うのです。
本来の六芸(りくげい)に於ける射の競技は、真ん中に皮を張った的に矢を当てる、ということを評価の重点には置いていませんでした。それで評価をすると、腕っ節(ぷし)の強いことが心の大きなこと、という大変可笑(おか)しなことになってしまいます。
射に於いては、対戦相手に対する敬意、勝ち負けに拘(こだわ)らない安定した態度、真摯(しんし)な集中力、立ち振る舞いの美しさ、といったような君子として相応(ふさわ)しい心の姿勢を評価したのです。
体力や腕力といった力の強さ(科)は、人によってそれぞれ皆違います。それは心の大きさには関係ないですね。だからそのようにしていたのです。心が小さくても腕っ節が強い方が高く評価される、という今の乱れた世の中ではとても叶わぬ在り方なのでしょうね。
これが古き善き時代の、本来の人の道の在り方なのです。何とかそのような平和な世の中を取り戻したいものです。
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☆ 補足の独言
競技の仕方一つをとってみても、世の中の情勢がよく現れるもののようです。五十年前の東京オリンピック。世界中が平和の中でより大きな平和を願って一体感を持って昂揚(こうよう)しました。それから五十年・・・そして今再び東京オリンピック。
孔子が嘆いたように、古(いにしへ)の道に戻ることは、余りにも難しいことなのでしょうね。