3 八佾第三 17

Last-modified: Wed, 14 Jul 2021 20:08:10 JST (1024d)
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☆ 八佾第三 十七章

 

 子貢欲去告朔之餼羊 子曰 賜也 爾愛其羊 我愛其禮

 

 子貢(しこう)、告朔(こくさく)の餼羊(きやう)を去らんと欲す。子曰く、賜(し)や、爾(なんじ)は其の羊(ひつじ)を愛(おし)む、我は其の礼(れい)を愛(おし)む。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 朔(さく)というのは新月、太陰暦の毎月の一日(ついたち)のことです。天文学者達が、太陽月星の天体の運行を観測計算して、生活を巧く自然界の気象変化に合わせて営んでいけるように暦(こよみ)を作成します。これは非常に重要なことで、毎年この暦が天子に献上され、年末に諸侯に配られて、各国でこの暦を祖廟(そびょう)におさめ、毎月朔の日に祭祀(さいし)を営み、暦に書かれているその月の内容を民に告げ知らせて農作業や季節のことを指導します。その時に用いる生贄(いけにえ)が餼羊(きよう)です。

 しかし近頃はこの礼も何時(いつ)しか行われなくなってきて、今では生贄の餼羊を意味なく供(そな)えるだけになっています。

 そこで子貢(しこう)が申し述べました。

 告朔の餼羊は、すでに有名無実なものになってしまっております。財政逼迫(ひっぱく)の折、餼羊は廃止するのが善かろうかと存じます。

 それに対して、先生は言われました。

 賜(し)ちゃん(子貢)や。貴方(あなた)は羊が惜(お)しい、勿体(もったい)ない、無駄金(むだがね)になる、と心を痛めておるようですが、私の痛みは別のところにあります。

 今や告朔の礼は、残滓(ざんし)としての餼羊のみになっています。しかし残滓だけでもあれば、それを手掛かりにして古(いにしえ)の礼を復活させることも可能です。いくら無意味だからといっても、残滓すら捨ててしまっては、もう復元は不可能になります。私は羊よりも礼が消えてしまうことの方が惜しまれてなりません。礼や文化といったものは、金(かね)には替え難いものです。

 

☆ 補足の独言

 この章を初めて読んだときに先づ思ったのが、中国人と日本人の感覚の違いです。我々は如何(どう)しても餼羊(きよう)、生贄(いけにえ)の羊が可愛そう、という思いが浮かんできます。「形骸化した無益な生贄はやめよう」と言われると、無益な殺生はやめましょう、という意味にとってしまいます。ところが子貢にはこれが経済の問題であり、孔子には伝統儀礼の問題だったのですね。頭の中で自分の発想を切り替えるのに少々時間がかかってしまいました。植物の生育に適した豊かな自然の環境に恵まれた日本に根付いた、仏教の殺生戒(せっしょうかい)の影響が大きいのかな、と思います。

 改めて見てみますと、実に子貢らしい意見だし、孔子らしい意見だと思われます。一説によりますと、弟子の中で子貢を嫌う一派が、子貢を貶(おとし)めるために孔子をもちだして捏(でっ)ち上げた作り話だ、とのことですが、それにしても二人の個性を能く表したお話しだと思います。

 子貢の言い分は実に合理的な筋の通った話だと思いますが、孔子の方は如何(どう)でしょう。古(いにしえ)からの伝統を大切にするというのは如何(いか)にも孔子らしいですが、告朔(こくさく)の儀礼が何としてでも復活させねばならないほどの意義のあるものなのでしょうか。孔子は拘(こだわ)る可きことには徹底的に拘りますが、そうでないことには拘りません。何時でも、より仁に叶う道は何か、と模索しています。この点が如何してもしっくりとこないので、捏ち上げ説に賛同したくなる自分がおる次第で御座います。

 この章の話から「告朔の餼羊(きよう)」という諺(ことわざ)ができていますが、意味は「形骸化して無意味になっている伝統的慣習は虚礼でしかない」(子貢説)というのと、「仮令(たとえ)虚礼でしかなくなっていても、伝統はできる限り保存して守ることが大切だ」(孔子説)という正反対の二つがあるそうです。どちらも納得できる大切なことですね。