3 八佾第三 18

Last-modified: Sun, 18 Jul 2021 13:59:07 JST (1020d)
Top > 3 八佾第三 18

 八佾第三 十八章

 

 子曰 事君盡禮 人以爲諂也

 

 子曰く、君(きみ)に事(つか)ふるに礼を尽(つ)くせば、人以て諂(へつら)へりと為(な)す。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 人はそれぞれ自分の置かれた位置、場所によって役割があります。この役割はそれぞれが責任を持って果たさねばならない義務です。各自が自分に課せられた義務を全(まっと)うすることで、世の中の調和が保たれるのです。王様に対しては、私は臣(しん)、家来という立場です。ですから、その地位から生じる義務をきちっと果たさねばなりません。それを正しく行うことが礼です。この礼を皆が正しく守って実践していくことが、世の中を正していくことの第一歩となるのです。

 しかし現実は「悲しいかな」ですなあ。上下関係が乱れてしまって、正しい礼を実行していると「彼奴(あいつ)は王さんに媚び諂(へつら)って出世しようとしよる」と聞こえよがしに言う連中もいます。彼等が解ってくれることを期待する訳ではないですが、礼がここまで廃(すた)れてしまっている現実を突きつけられると、流石(さすが)に一寸(ちょっと)意気消沈してしまうところがありますねえ・・・あ、いやいや、思わず愚痴(ぐち)ってしまいました。先づは自分が、もっと心を確(しっか)り大きく持たなければ。ね。軽く明るく正しく、実践あるのみです。楽しいことが一番ですから。

 

☆ 補足の独言

 日本では(第二次世界大)戦後の学校教育で、「自由・平等・個人の権利の主張」が叫(さけ)ばれて、強制的な義務を感情的に嫌悪し毛嫌いする風潮が蔓延(まんえん)しました。この偏(かたよ)った教育に毒された感覚だと、孔子の感覚は差別意識に思えて受け容れ悪(にく)いかも知れません。しかし感情を一寸(ちょっと)横に置いて、理性で以て考えてみましょう。平等というのは、誰もが同じ権利を持っている、ということです。自由というのは、自分だけが自由なのではありません。皆同等に自由なのです。他者の自由を認めると自分が不自由にならざるを得ないという事態も起こり得ます。自由も不自由も、平等に分かち合わなければならないのです。この分かち合って自分が貰える自由が「権利」であり、分かち合って自分も受け取らざるを得ないのが「義務」です。この義務は、皆が対等に平和に暮らすためには、絶対に守らねばならない強制的なものなのです。「自由・平等・権利」には大きな「義務」が伴っているのです。

 この義務のことを「思いやり」と言い、これが孔子の「礼」の本質なのです。