3 八佾第三 5

Last-modified: Sun, 20 Jun 2021 17:00:47 JST (1048d)
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☆ 八佾第三 五章

 

 子曰 夷狄之有君 不如諸夏之亡也

 

 子曰く、夷狄(いてき)すら之れ君(きみ)有り。諸夏(しょか)の亡(な)きが如(ごと)くならず。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 東夷(とうい)西戎(せいじゅう)南蛮(なんばん)北狄(ほくてき)と呼ばれて蔑(さげす)まれている辺境の国々でさえ、王様が在(い)て国が纏(まと)まっています。

 それに対して、中夏(ちゅうか)とか中華と呼んで世界の中心だと威張(いば)っている、夏(か)殷(いん)周(しゅう)と続いてきた我が国の現状は如何(どう)でしょうか。今や王様は在って無きが如しという下剋上(げこくじょう)の状態で、どの国も乱れきって疲弊(ひへい)しています。辺境諸国の生き活きとした姿とは比べようもありません。悲しいことですね。

 

☆ 補足の独言

 「子曰く、夷狄(いてき)の君有るは、諸夏(しょか)の亡(な)きに如(しか)ず。」

 古い読み方解釈ではこうなっていたようですが、それだと、「辺境の国は仮令(たとえ)王さんが在(い)てしっかりしていても、王さん不在でバラバラになっている我が中夏(中華)の諸国には敵(かな)いようがない」という意味になってきます。孔子は、愛国精神の大きな人ですが、中華思想のような差別感覚は持っていない、と思われます。

 この篇の一・二章の八佾(はちいつ)や雍(よう)のような出来事があっても、それでも辺境の蛮族よりも我が中華の国々の方が未(ま)だ増(ま)しなのだ、というような、理性の失われた傲慢(ごうまん)な感情論を孔子が述べる等(など)とは、到底(とうてい)考えようのないことです。朱熹(しゅき)も、彼の孔子理解からこのような疑問を懐(いだ)いて、新しく正反対の意味になるような解釈をしたのではないでしょうか。