3 八佾第三 7

Last-modified: Thu, 24 Jun 2021 22:46:58 JST (1044d)
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☆ 八佾第三 七章

 

 子曰 君子無所爭 必也射乎 揖讓而升 下而飮 其爭也君子

 

 子曰く、君子は争(あらそ)ふ所無し。必ずや射(しゃ)か。揖譲(いふじゃう)して升(のぼ)り、下(くだ)りて飲(の)む。其の争ひや君子なり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 心の広い人は争いや喧嘩はしないものです。

 誰でも心の中には本能的慾求(よっきゅう)慾望と言えるようなものを沢山抱えもっています。その一つに、他者と競(きそ)って勝ちたい、勝って名誉を手に入れて皆に認めてもらいたい、という慾望があります。心が小さいと、小さな心はその慾望だけで一杯になり、嗜癖(しへき)とか中毒とか呼ばれる症状が出てきます。心が慾望に支配された状態ですね。

 慾望に支配されると理性が働かなくなり、思い通りにならないと怒りが爆発し、不正もやってのけて平気、という事態にもなりかねません。喧嘩は慾望と慾望とのぶつかり合いで起こるのです。

 小さな狭(せま)い心だとこのようなことも起こるのですが、大きな広い心だと如何(どう)なるのでしょうか。

 大きな心は慾望を拒否するのではありません。小さな心とは反対に、心が慾望を支配するのです。「心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」(為政第二、四章)ということですね。慾望が心を支配すると、どんなことも極端に走ってしまいます。心が慾望を支配できれば、真ん中に安定して居(お)れるようになるのです。これを「中庸(ちゅうよう)」と言うのです。隣の印度ではゴータマ君(仏陀、釈迦)が同じようなことを言っているようですね。彼は中道(ちゅうどう)という言葉を使って、心が慾望を制御(せいぎょ)することで苦しみから解放されて、欲望が楽しめるようになりなさい、と言っているようですね。

 「慾(よく)」は人間の欲、貪慾(どんよく)であり、「欲(よく)」はもっと軽(かろ)やかな望みです。争いや苦しみの原因となる貪慾からは離れる必要があります。その上で、欲望に従って好きなように動いても、礼を失することなく思いやり配慮ができていて、皆で和(なご)やかに楽しく満足な時を過ごすことができる、それが心の大きな人の在り方なのです。

 改めて「射(しゃ)」を例にとって言ってみましょう。

 心の大きな人は争うというようなことは先づありません。強(し)いて争いといえば、「射」ですね。これは心を鍛えて大きくするために学ばなければならない「六芸(りくげい)」、つまり「礼・楽・射・御(ぎょ)・書・数」の一つで、弓矢の訓練です。そこでは競技が行われますが、しきたりが確(しっか)りとあって約束事通りに礼儀に沿って行われます。

 先づは、お互いに相手への敬意を払っての挨拶(あいさつ)を交わします。それから共に堂に上がります。そして降りてから、勝者が敗者に酒を注(つ)ぎます。

 酒を飲むというのも、本能的な大きな慾望の一つです。勝った者は勝つという欲求と、何よりも名誉という欲求が満たされます。負ければそれは満たされないのですが、代わりに髙価な美酒が振る舞われます。負けてもそれなりに欲求が満たされ、皆が満足できるのです。競(きそ)いはしても争いにはなりません。これぞ心の大きな君子に相応(ふさわ)しい、争いにはならない争い、と言えるでしょう。

 

☆ 補足の独言

 野球のMLB(米国大リーグ)で世界一という評価を受けている二人の日本人選手、イチローと大谷翔平(しょうへい)君、私はこの二人が大好きなのですが、素晴らしいですね。彼等は野球が好きで好きで大好きで、心から楽しんで命を賭(か)けている。そして何より本当に自然な行動の中に、他者への尊敬と思いやりの配慮が滲(にじ)み出ています。きっと孔子が絶賛するに違いない、と確信しています。君子という心の大きな人の在り方を学ぶ上で、最高の模範像(model)になるのではないでしょうか。テニスの大坂なおみさんも同じに思えます。

 正直なところ、彼等がきちっと論語を学んでいるとは思えません。しかし彼等以上に論語の精神を実践できている人を知りません。と言うことは、彼等三人の存在が、論語に書かれていることは決して人為的独善的な、偏固(へんこ)な教条(dogma)ではなく、人間本来の一番自然な素直な在り方なのだ、ということの証明になっているのではないでしょうか。