3 八佾第三 8

Last-modified: Sat, 26 Jun 2021 16:38:17 JST (1042d)
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☆ 八佾第三 八章

 

 子夏問曰 巧笑倩兮 美目盼兮 素以爲絢兮 何謂也 子曰 繪事後素 曰 禮後乎 子曰 興予者商也 始可與言詩已矣

 

 子夏(しか)問(と)ひて曰く、巧笑(かうせう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(へん)たり、素(そ)以て絢(あや)を為すとは、何の謂(いい)ぞや。子曰く、絵(ゑ)の事は素(そ)を後(のち)にす。曰く、礼は後(のち)か。子曰く、予(われ)を興(おこ)す者は商(しゃう)なり。始めて与(とも)に詩を言ふべきのみ。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 子夏が先生に質問しました。

 詩経(国風、衛風(えいふう)、57碩人(せきじん)か)に、「笑顔に笑窪(えくぼ)が絵のようで、お目々ぱっちりその上に、白粉(おしろい)塗(ぬ)ればえも言えぬ」とありますが、これには何かを象徴した深い意味があるのではないでしょうか。

 先生は言われました。

 その通りですね。この詩では、先づその女(ひと)が美しい女(ひと)だ、ということを謳(うた)っています。

 では、絵を描(か)くときの技法で考えてみましょうか。先づは美しい口元や目鼻立ちを描(か)いて彩色しますね。そして最後の仕上げに白を塗ります。すると、その白に因(よ)って前(さき)に塗った総ての色や形が引き立って輝いてくるのです。この最後の仕上げが大切だ、と言っているのですね。

 そう教わって子夏ははたと気が付いて言いました。

 何をするにも正しく学んで正確な知識や技術を身につけることが必要ですが、その上でその知識や技術を生かすのは礼ということで・・・、つまり、ああそうか、礼は最後の仕上げなのだ、ということですね。

 それを聞いて先生は驚き喜んで言われました。

 そうそう、確かにそうだ。商(しょう)ちゃん(子夏)は私を触発してくれるねえ。こんな楽しいことはない。商ちゃんとは一緒に詩を語り合うことができるねえ。

 

☆ 補足の独言

 子貢の「切磋琢磨(せっさたくま)」(学而第一、十五章)の話もそうですが、相手が深い理解を示してくれたときの孔子の喜びようは一入(ひとしお)ならぬものがあります。心の深い世界を存分に語り合える相手がいなくて、寂しく孤独に飢えていたのだろうな、と思います。