4 里仁第四 13

Last-modified: Thu, 16 Sep 2021 21:31:44 JST (960d)
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☆ 里仁第四 十三章

 

 子曰 能以禮讓爲國乎 何有 不能以禮讓爲國 如禮何

 

 子曰く、能(よ)く礼譲(れいじゃう)を以(もっ)て国を為(をさ)めんか、何か有(あ)らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何(いかん)。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 礼というのは、相手が不愉快にならないように、お互いに尊重し合う気持を行為に表したものです。礼は行為という形に表すので、その形式が重要になってきます。そのために、礼は形式だと誤解している人が多いのですが、形だけでは決して礼にはなりません。国を治めるのが難しいのは、規則や形式だけで人(人民や政敵)を縛(しば)って思い通りにしようとするからです。世の中を円滑に運営していくための規則を、相手の状況や気持ちを無視して一方的に強制して守らせようとすると、当然強制される側は、こちらの主張する規則に逆らって、自分の都合や思いを主張してきます。そうなると、諍(いさか)いは防ぎようがなくなりますね。

 一見したところ礼はきちっとした形式のように思えますが、礼の本質は形式ではありません。礼の本質は心です。皆が楽しくやっていけるように相手を尊重し皆を愛する心です。それは相手を思い遣り、こちらが一歩退いて、相手にこちらと対等な主張空間を与えて、共に考えていける場を設(もう)けることなのです。この姿勢を「譲(じょう)」と言います。

 譲の心で行う本当の礼が実践できたならば、国政を司(つかさど)る上においても、何の問題がありましょうぞ。

 しかし若し仮に、この譲の心をもたずに、礼という名目の規則だけを押しつけて有無(うむ)を言わせず押し通したとしたら如何(どう)ですか。どんなに形の上では古来からの伝統的な礼に則(のっと)っているように見えても、そこに礼は微塵(みじん)も存在しません。

 譲こそが礼の本質なのだ、ということを能く理解して、上にも同僚にも民にも喜びが育っていくような礼譲の実践を心掛けて下さい。

 

☆ 補足の独言

 孔子から観て、現実の為政者(いせいしゃ)の多くが、偽善家(ぎぜんか)でしょう。それは表向きは礼儀正しく立派なことを言っているが、心が全く伴っていなくて、己の利のみを求めている、という輩(やから)のことです。その現実を何とか変えたい、という願いで戦い続けてきたのが孔子の生涯である、とも言えると思います。「何有(簡単じゃないか!)」「如礼何(礼は一体どうなるんだ!)」という激しい極端な言葉に、立場を悪用する偽善家達への憤(いきどお)りが強く表れているようにも思います。

 蛇足(だそく)ですが、孔子の時代も二千五百年後の今も、政治家というものは変わらないですね。