4 里仁第四 15

Last-modified: Thu, 23 Sep 2021 15:56:52 JST (953d)
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☆ 里仁第四 十五章

 

 子曰 參乎 吾道一以貫之 曾子曰 唯 子出 門人問曰 何謂也 曾子曰 夫子之道 忠恕而已矣

 

 子曰く、参(しん)や、吾が道、一(いつ)以(もっ)て之を貫(つらぬ)く。曾子(そうし)曰く、唯(ゐ)と。子出(い)ず。門人(もんじん)問ひて曰く、何の謂(いひ)ぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 曽先生の若い頃の、或る日の孔子学園でのできごとです。曽参(そうしん)達若い門弟が集まって曽参の得意とする孝(こう)について論議を戦わしていました。それを聞いていた先生は曾参を呼んで言いました。

 参(しん)ちゃんや、一寸こちらへ来て下さい。貴方は真面目にこつこつと研鑽(けんさん)を積んで、能く勉強ができています。然し如何(どう)も、一つ一つの理解がばらばらで、芯の所が理解できていないようですね。大切なのは核心、本質を掴(つか)んでそこから物事を観て理解するようにすることです。

 私は唯(ただ)一つの芯だけをもって、そこから総てのことを理解するようにしていますよ。私の芯は「仁」です。

 曽参:はあ。

 先生:具体的に言えば、「忠恕(ちゅうじょ)」ということです。自分の衷心(ちゅうしん)に正直に誠意を尽くし、他者(ひと)を慈しみ思い遣り受け容れることです。この忠と恕は別々のものではありません。これらが一体となって「仁」なのです。私はこの一点からのみで、総てを理解するように心掛けています。

 参(しん)ちゃん。「孝」を考えるときにも、色んな細かな理屈をあれやこれやと考えるのではなく、「真心と思い遣り」という「仁」の一点に心を据えて考えるようにしてみたらよいですね。

 曽参:はい、能く解りました。

 先生は曽参にそれだけ伝えると出て行かれました。曽参が部屋に戻ると門人達が寄ってきて口々に問いかけました。

 門人達:おい、先生は何とおっしゃったのだ。

 曽参:私の道は唯(ただ)一つのことを芯に据えてそこから総てを理解するようにしている、とおっしゃったのだ。そこで私は、はい、解りました、とお返事申し上げたのだ。

 門人達:何のことだ。どういう意味だ。

 曽参:先生が最も大切にしておられることは「忠恕」ということだ。先生は唯そのことだけから総(すべ)てのことを理解しておられるのだ。

 皆(みんな)何となく解ったような気がして、感心して頷(うなづ)き、再び喧噪(けんそう)な議論を戦わせ始めました。

 この日もこのようにして、孔子学園の楽しく充実した時が過ぎていきました。

 

☆ 補足の独言

 孔子の「一(いつ)が忠恕である」というのは、私としては納得し難(がた)いものがあります。「忠」と「恕」だと「二」になります。孔子の「一」といえば、「仁」しかないはずです。

 また孔子が態々(わざわざ)曽参(そうしん)を呼んだのは何故か。曽参が「一(いつ)以(もっ)て之を貫(つらぬ)く」ということの大切さを理解していなくて、枝葉末節に拘(こだわ)った融通(ゆうづう)の利かない教条的な理屈に陥(おちい)っていたから、ではないでしょうか。

 孔子は、先輩格の曽参に恥を搔かせないないために、彼だけを呼び出して言ったのでしょう。孔子は「一(いつ)とは仁だ」と伝えたはずです。然し「仁」は子貢達大先輩にとっても難しい言葉です。曽参は当然、漠(ばく)とした表情をしたことでしょう。それで孔子は、彼に解るように叮嚀(ていねい)に説明したのだと思います。それでようやく腑(ふ)に落ちた曽参は、門人達に訊(き)かれたときに、自分が理解できたことだけを伝えたのでしょう。

 この曽参のお陰で、私達は「仁の本質は忠恕である」と言える一面があるのだということが解って、大変有り難いことです。