4 里仁第四 21

Last-modified: Sun, 24 Oct 2021 15:47:05 JST (922d)
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☆ 里仁第四 二十一章

 

 子曰 父母之年 不可不知也 一則以喜 一則以懼

 

 子曰く、父母の年(とし)、知らざるは可ならず。一(いつ)は則(すなは)ち以(もっ)て喜(よろこ)び、一は則ち以て懼(おそ)る。

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 孝は義務でもなければ、形式でもありません。孝は気持ち、親に対する心の在り方なのです。本当に親を愛しているならば、年老いた親に対しては、自然必然に親の歳が気になってしまいます。それは何時までも長生きして、親子共々幸せでありたいからです。

 親の歳を思うと、一つには「嗚呼ここまで生きてくれていて良かった」という喜びの気持ちが感謝と共に湧いてきます。それと同時に、老いて弱っていることを思うと、何時(いつ)何が起こっても不思議はない、この幸せが何時までも続いて欲しいが大丈夫だろうか、という不安や恐れが常に付き纏(まと)うものです。

 これは勝手にそうなるものであって、孝の条件ではありません。親の歳を知っていれば親孝行だ、なんてそんな馬鹿な話はないでしょう。親への感謝や喜びと気遣(きづか)いが孝なのです。

 

☆ 補足の独言

 「可(べし)」という言葉は、現在の日本語としては、「ねばならない」という強制的義務の意味合いが強くあります。論語にはこの「可」という言葉が非常に能く出てきます。然し、どうも意味合いが全く違っているようです。「それでよい」とか「それも可能だ」とかいった感じが多いですかね。この章の「可」も、「それで当たり前だ」とか「そういうものです」という意味合いでないと孔子の全体像と齟齬(そご)を来(きた)してくるようにおもいます。

 この「可」に対する勘違いから、「論語は形骸化した押付(おしつけ)道徳である」という誤解が広まってしまったのではないでしょうか。