5 公冶長第五 10

Last-modified: Sun, 20 Feb 2022 17:29:20 JST (803d)
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☆ 公冶長第五 十章

 

 宰予晝寝 子曰 朽木不可雕也 糞土之牆 不可杇也 於予與何誅 子曰 始吾於人也 聽其言而信其行 今吾於人也 聽其言而觀其行 於予與改是

 

 宰予(さいよ)、昼(ひる)寝(い)ねたり。子曰く、朽木(きうぼく)は雕(ゑ)る可からず。糞土(ふんど)の牆(しゃう)は杇(ぬ)る可からず。予(よ)に於(おい)てか何(なん)ぞ誅(せ)めん。子曰く、始(はじ)め吾、人に於けるや、其の言(げん)を聴いて其の行(おこなひ)を信じたり。今吾、人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於いてか、是を改めたり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 孔子学園の重鎮の一人に宰予(さいよ)(宰我(さいが))という弟子がいました。彼は利発で言語巧みにして、物事を筋を通して考え理解する性(さが)の人だったようです。その点で、子貢と並び称(しょう)されていました。唯、彼の欠点は、間違ったことを言う人を容赦なく理屈で捩(ね)じ伏せるところがあったようです。皆の前で恥を搔かされた弟子は、恨み骨髄に達していたのでしょう。それでこんなことを言い触らしていました。

 「宰予が怠けて昼寝をしていたところを先生に見付かってしまった。先生はそんな宰予を見て、うんざりして言われたよ。

 朽ちた木には、如何(どん)な優秀な職人であっても巧く彫刻することはできない。壁は綺麗な土を使って初めて確りと固めてその上を美しく塗り仕上げることができるものだ。宰我のような朽ち木、糞土の壁には全く以て手の施しようがない。嘆かわし過ぎて説教する気にもなれぬわ。

 と大層なお怒りだったぞ」と。

 私はそれを聞いて首を傾(かし)げました。そんなに心の大きくない人でも、こんなことで怒りまくることはないでしょう。況(ま)してや心の並外れて大きな先生が、そのようなことを言われる筈がない。先生を知っている人なら解るはずです。先生は普段こう言われています。

 世間では「朽木(きゅうぼく)は雕(え)る可からず。糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)る可からず」と。それは間違いです。仮令(たとえ)朽木であろうと糞土の牆であろうと、本人が望む限り彼の個性を活かし伸ばし人格を高める手助けをし続けることが大切なのです。決してあきらめてはいけません。

 それに先生は、事情も分からないのに自分の思い込みで以て勝手に判断して決めつけるような小人ではありません。必ず「如何したのですか」と尋(き)いてくださる筈です。言い触らしている人の話を聞いていると、先生は、愚痴にしかならない独善的な不満をブチブチ言っているつまらない小人か、と誤解してしまいます。あり得ないことです。

 そして、大嘘だと確信したのは彼がその後(あと)言った言葉です。彼は言いました。

 「更に先生はこうも言われたぞ。昔は私は人を素直に信じていた。人が何かを言ったら、それはそのままその人の行いが語られている、と。ところが宰我の所為で人の言うことを信じることができなくなってしまった。今では、人の言うことを聞いても、実際の行動を見るまではその人を信じることができなくなってしまったのだ。私がこうなってしまったのは皆(みーんな)宰我の所為(せい)だ、とね。」

 これを聞いて「阿呆(あほ)かこいつは」と呆(あき)れかえってしまいました。これは一見すると、昔は聖人君子であった私が、宰我の所為で惨(みじ)めな小人になってしまった、と言っているようです。君子が、如何(いか)に優秀とは言え、宰我如きに小人に変えられてしまう、てなことがあり得ますか。

 大体、言葉だけで人を信じるのが君子である、なんてことを先生が言う訳がないでしょう。先生は常日頃、正反対のことを言っておられます。言葉は仁からは最も遠いものですよ(学而第一、三章)とか、行いが大切であることを、繰返し繰返し述べておられます。君子は言葉だけで軽率に信じることはしません。行いを観て初めて信じることができるのです。彼の戯言(たわごと)を信じるならば、先生は宰我のお陰で君子になれた、ということになります。が、私の知る限り、先生は宰我が弟子入するより遙か前から、行動で以て人物を深く理解される方でした。

 多分真相はこんなことなのではないでしょうか。

 宰我は、子貢と比較されるほどに、頭が切れて論理性に富み、言葉巧みに論争を楽しんでいました。先生から観ると、言葉に頼り過ぎて少し行動を疎かにするところがあったのでしょう。或る時先生が言われました。

 予(よ)っちゃん(宰我)や。貴方は論理に優れていて、理屈で物事を考え過ぎる嫌いがありますね。私も少年の頃は一生懸命勉強をして、言葉に囚われて言葉を信じて人を観ていました。然し、年と伴に、言葉や理屈は真実とは懸(か)け離れてしまうことがある、ということが解るようになってきたのです。それに対して、人の行いには必ずその人の真実が現れています。言葉に囚われなくなったら、行いから真実が見えるようになってきますよ。

 先生のこの言葉を聞き齧(かじ)った愚かな弟子が、この途(と)んでもない醜聞(しゅうぶん)を捏(でっ)ち上げたのでしょう。

 

☆ 補足の独言

 宰我の記事には、悪意の感じられるものが多いですが、それにしてもこの章は酷(ひど)過ぎると思います。それで、解説者に登場してもらって、真相を追究する、という形式を採ってみました。