5 公冶長第五 12

Last-modified: Sat, 05 Mar 2022 16:59:54 JST (790d)
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☆ 公冶長第五 十二章

 

 子貢曰 我不欲人之加諸我也 吾亦欲無加諸人 子曰 賜也 非爾所及也

 

 子貢(しこう)曰く、我(われ)人の諸(これ)を我に加(くは)ふることを欲(ほっ)せざるを、吾も亦(また)諸(これ)を人に加ふること無からんと欲す。子曰く、賜(し)や、爾(なんぢ)の及(およ)ぶ所に非(あら)ざるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
 嘗(かつ)て子貢が先生に、自分が生涯修行をし続けていく上で心掛ける可き大切なことを一言で言い得る言葉は有るでしょうか、と問うたことがあります。(衛霊公第十五、二十三章)その時先生は言われました。
 うむ。ありますね。それは「恕(じょ)」です。相手の身になってその人を思い遣ることです。「己の欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」自分がされて嫌なことを、決して人に対してすることのないように心掛ける、ということですね。これは生涯かけて修業しなければならないほど、大切なだけに難しいことですよ。心しておやんなさい。
 そう教えられた子貢は性根(しょうね)を入れて頑張ったようです。
 そして或る日、先生に修業の経過報告をしました。
 先生。私は先生から教えられて、正にその通りだと得心(とくしん)しましたので、このように努力しております。自分が人にされたら嫌なことを、自分から人にすることがないように、と。

 それを聞いた先生は、にこっと笑って言われました。
 賜(し)ぃちゃん、それは一寸(ちょっと)今の貴方には無理なことですよ。私の言った言葉を能く思い起こしてみてください。

 それで子貢ははっと気付きました。
 あの時に先生は、「それは恕だ」と言われた。恕というのは、神に祈りを捧げる巫女(みこ)の清純で大らかな心のこと。〔恕という字は、「女」と「口」と「心」から成り立っています。女は巫女を意味し、口は器(うつわ)の形を表す字で、祭壇に備えられた神器を意味するのだそうです。すなわち「神懸(かみが)かりして神意を伺(うかが)う巫女の心」というのが、恕という字の原義なのだそうです。〕恕は仁と等しい究極の理想であり、生涯を掛けて目指していく可きことである。生半可(なまはんか)な気持ちではできない、ということだ。そのとき先生はこういわれた。「人に施すこと勿(な)かれ」と。今私は「人に加うること無からんと欲す」と言ってしまった。「無い」というのは、仁や恕を極めて初めて可能な自然体の境地である。根性がそこまで至っていない自分が、自然体でやる気を起こしてやった心算(つもり)でも、自然体どころか、気が抜けて酢(す)になった酒のようなもので、修業にも何にもなりやしない。今必要なのは、「勿かれ」という決して揺るがせない強い意志の力なのだ。己を厳しく引き締(し)めて、神に対峙(たいじ)して神意を伺(うかが)う巫女のような真剣さなのだ。

 子貢は「無」の一言で自分の状態を見抜いた先生の慧眼(けいがん)に身震いして、嬉しそうに去っていきましたが、それを見ていた私達は、先生のたったの一言でその忠告を理解した、子貢の慧眼に身震いしました。

 

☆ 補足の独言

 孔子は子貢に、「己の欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」これを実践しなさい、と教えていながら、子貢が「我(われ)人の諸(これ)を我に加うることを欲せざるを、吾も亦諸(これ)を人に加うること無からんと欲す」と言ったら、今度は「そりゃああんたにゃ無理だよ」と、けんもほろろに突っぱねているように見えます。孔子がそんな陰湿な意地悪をする訳がありません。となるとこれは、宰我に対すると同様の、子貢を貶(おとし)めるための捏(でっ)ち上げか、と疑われます。然しこれが事実だとしたら、一体如何言う意味なのだろう、と考えて、こんなお話になりました。