5 公冶長第五 13

Last-modified: Wed, 18 Jan 2023 14:41:24 JST (471d)
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☆ 公冶長第五 十三章

 

 子貢曰 夫子之文章 可得而聞也 夫子之言性與天道 不可得而聞也

 

 子貢(しこう)曰く、夫子(ふうし)の文章(ぶんしゃう)は、得(え)て聞く可きなり。夫子の性(せい)と天道(てんだう)とを言ふは、得て聞く可からざるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 

 先生は屁理屈が嫌いです。言うことに筋が通っているかどうかは、問題にされませんでした。何時でも、その言っていることが実際の行動と合っているかどうか、を厳しく観ておられました。しかし先生自身は物凄い理屈屋で、本当は論争が大好きだったのではないかと疑っています。何(いず)れにせよ、弟子達が空論を振り回して議論することを、(仁の)道を見えなくさせてしまう危険なもの、としてきつく戒(いまし)めておられました。ですから必然的に、弟子への指導は実行動のあり方が中心になっていました。しかし、先生の心の芯に居座っているのは、性(せい)と天道(てんどう)なのです。その性や天道の在り方が、現実生活に於いてはその立ち振る舞いやものの見方考え方信念として、その人の具体的な姿を、美しくまた醜(みにく)く飾っているのです。この具体的に見せる姿である飾りを「文(ぶん)」とか「章(しょう)」と言います。文も章も字の本(もと)の意味は、身体(からだ)を美しく飾る刺青(いれずみ)のことです。この刺青によって、その人の身体の本質を分かり易く明示します。その刺青を正しく彫る事によって本質に迫(せま)っていくのです。そこまでの心の広い君子としての在り方が確(しっか)りと身についていない内に本質のことを教わるのは、百害あって一利なし、と先生は考えておられたのでしょうね。ですから子貢は先生から本質論を聴きたくてうずうずしていました。

 或る時子貢が、興奮した様子でこのように言っていました。珍しく先生から性や天道の話を聞けたので余程(よっぽど)嬉しかったのでしょう。

 先生は何時でも、私達が心の大きな人間になれるように、思い遣りの在り方や心掛け信念といったことについて懇切丁寧に教えてくださるから、そのようなことは何時でも聴けます。実はそれは先生が、人間の本質、人間とは如何なるものであり、どの様な特質を持っていて如何(どう)反応するのか、その所以(ゆえん)は何か、といった「性」のことや、天地自然の摂理、宇宙の構造や、気象や天体の法則、そして何より天命、天の意志といったこと、乃ち「天道」のことを、誰よりも能く知っておられるからなのです。先生の中には何時でもそれが根底にあって、そこから必然的に出てくる実行動や在り様(よう)を語られているのです。本質そのものに触れられることは滅多とありません。今日は正に千載一遇ですよ。実に満足です。しかし今教わったことは伝えることができません。言葉や文字は文章、つまり目に見える飾りを伝えるものであって、見えない本質を伝えるには適していません。先生が本質を語られる時には頭の中から一切の屁理屈を廃(はい)して、謙虚に自分の身体の反応に身を委ねて実感で聴かねばなりません。皆さん周知の如く、私(子貢)はついつい頭で考えて口に出しては先生から「煩(うるさ)い」と叱られていますが。

 

☆ 補足の独言

 「鬼神、啓して之を遠ざく」(雍也第六、二十章)などの話から、孔子の懐いている天道や性への理解と対応姿勢を勝手解釈で妄想すると、こんな話になりました。

 尚、孔子が性と天道について語らなかった理由は、素直に考えてみて、こういうことではないのでしょうか。誰も質問しなかった、と。

孔子は誰の如何(どん)な質問に対しても、その質問者に有益であるように配慮した応答をしています。鬼神に関しては、「敬(うやま)え」そして「惑わされるな」と答えているのです。性と天道は、人間と宇宙存在に関する根源的なものです。そこに至るまでの理解ができていなければ、質問のしようもありません。子貢すらも中々そこまで深めて質問することができなかった、ということでしょう。先生からその話が聴けた、ということは、自分の理解が質問できるところまで深まった、ということになります。子貢の喜びは、そこにもあったのかも知れませんね。