5 公冶長第五 14

Last-modified: Wed, 23 Mar 2022 13:51:07 JST (772d)
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☆ 公冶長第五 十四章

 

 子路有聞 未之能行 唯恐有聞

 

 子路(しろ)、聞くこと有りて、未(いま)だ之を行(おこな)ふこと能(あた)はざれば、唯(ただ)聞く有らんことを恐(おそ)る。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 子路は元来「礼」には無縁の漢(おとこ)でした。それが孔子の薫陶(くんとう)を受けて、誰よりも正しく礼の大切さを理解したのです。礼は決して自分を卑下することではありません。対等な存在である相手を敬い思い遣ることです。他者(ひと)を見下して俺が一番偉いのだ、と命を張って突っ張っていた子路が、それは心の弱さでしかなく、本当の強さは命を懸けて相手を思い遣り大切にする孔子の姿勢の中にこそある、と思い知らされたのです。どんな偉い人に対しても引け目を感じない子路(子罕(しかん)第九、二十七章)は、唯、自分が納得できない限り、決して誰の言にも従うことはありませんでした。その代わり、納得したことはとことん遣り抜かないと収まらない、という性格です。納得がいかなければ、先生に対しても遠慮無く噛み付きますが、納得すると実に素直に堂々と、恥ぢず悪びれず行動するのです。

 一つ事だけを徹底的に努力する、ということも能くありましたが、それは同時に幾つもの事をやろうとすると混乱してできなくなる、というのとは全く違います。一つ事もちゃんとできてないのに、次のことにも手を付けることは、どちらの作業に対しても不義理になって、納得のいきようがない、ということのようです。それ故に、先生から出された課題は即遣り抜こうと、常に全力を注いでいたのです。その課題の実践が自分で納得できるようになる前に次の課題を出されると、傍(はた)から見ても可笑(おか)しいくらいに狼狽(ろうばい)していました。その誠実で生真面目(きまじめ)な態度は、正に弟子達の規範となる可きものでしょう。

 

☆ 補足の独言

 「礼」は思い遣りの心から発するものであって、見目麗(うるわ)しい形式ではない。思い遣りという心が美しいから、その発露(はつろ)である礼が美しいのである。礼を形として学ぶと、卑下や媚(こ)び(佞(ねい))に陥(おちい)り易い。

 決してそこに陥らない子路の、本物の「剛の者」である所以(ゆえん)が述べられた章ではないでしょうか。心の弱き者は、自分の身の安全を図(はか)って身の危険を「恐れ」ます。剛者は、精一杯の努力をする中で、その努力が足りなくて自分を鍛えることができないことを「恐れ」て、より一層の努力をするのです。それがこの章の子路の姿ですね。