5 公冶長第五 18

Last-modified: Sun, 22 May 2022 14:30:05 JST (712d)
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☆ 公冶長第五 十八章

 

 子曰 臧文仲居蔡 山節 藻梲 何如其知也

 

 子曰く、臧文仲(ざうぶんちゅう)、蔡(さい)を居(お)き、節(せつ)を山(やま)にし、梲(せつ)に藻(さう)す。何如(いかん)ぞ其れ知(ち)ならんや。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 我が魯国の賢人、知者として名の通っている臧文仲ですが、この方は家に、蔡(さい)の国で獲れる故に蔡と呼ばれる、占い用の大亀の甲羅を置き、その祭壇の柱に山型の装飾を施し、梲(うだち、うだつ)(梁(はり)の上に立てて棟木(むなぎ)を支える短い柱)には、この亀が生きていた頃を偲(しの)ばせる水草を描(えが)いていたそうです。これらのことは王さんにしか許されていないことなのに、いくら一番の権力者とはいっても、一介(いっかい)の大夫の身では、決して許されないことです。このような和を乱す行いは、とても立派な人とは言えないですね。しかし、だから臧文仲は駄目だ、というのではないですよ。

 

☆ 補足の独言

 臧文仲は、孔子より百年以上前に活躍した魯国の権力者である大政治家です。

 『左伝(さでん)』(『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の略称。魯国の歴史書である春秋の解説書)には、臧文仲の偉大な活躍ぶりが何度も出てきます。きっと孔子も感銘をうけたに違いないと思われる内容です。現に『史記』仲尼弟子列伝・貨殖列伝の中で司馬遷(しばせん)はこう述べています。

 「孔子が師と仰いだひとびとに、周(しゅう)では老子、衛(えい)では蘧伯玉(きょはくぎょく)、斉(せい)では晏平仲(あんぺいちゅう)、楚(そ)では老萊子(ろうらいし)、鄭(てい)では子産、魯(ろ)では孟公綽(もうこうしゃく)があった。そして臧文仲・柳下恵(りゅうかけい)・銅鞮伯華(どうていはくか)・介山子(かいざんし)の名をいくどか引き合いに出している。けれどもこの四人は、孔子よりも前の人で、世(とき)を同じくしなかった。」

 この記事から察するに、孔子は古(いにしえ)の魯の大先輩である臧文仲を深く尊敬していたのではないかと思われます。然(そ)うするとこの章の内容とは全く以て整合性がなくなってしまいます。ということは、この章は後世(こうせい)の捏造(ねつぞう)であろう、としか考えられません。では何故(なぜ)このような捏造が必要であったのか。

 『論語』の中で、孔子が怒りの感情に駆られて惨めな小人(しょうじん)の姿に変身するのは、上の権威を下の者が犯したときです。皆が平和に幸せに暮らしていくためには、各々が自分に与えられた義務を、責任を持って果たす、ということが、大前提として必要でしょう。しかし他の記事から感じられるところでは、孔子は確かに秩序は重んじますが、そんなに目くじらを立てて怒るほどのカチカチ頭であったとは思えません。後(のち)の漢の武帝の時代になって儒教が国教として認められるようになりますが、その為には『論語』が権力者を守る教えであることを証拠立てることが必要だったのではないでしょうか。それで、権威主義者にとっては望ましい教条主義の浅はかな儒者達が幅を利かせたのかも知れませんね。今まっこと小人(しょうじん)である私が言っているこのような否定的な非難を、君子である孔子がする筈はないのです。