5 公冶長第五 19

Last-modified: Fri, 03 Jun 2022 13:16:09 JST (700d)
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☆ 公冶長第五 十九章

 

 子張問曰 令尹子文 三仕爲令尹 無喜色 三已之 無慍色 舊令尹之政 必以告新令尹 何如 子曰 忠矣 曰 仁矣乎 曰 未知 焉得仁 崔子弑齊君 陳文子有馬十乘 棄而違之 至於他邦 則曰 猶吾大夫崔子也 違之 之一邦 則又曰 猶吾大夫崔子也 違之 何如 子曰 清矣 曰 仁矣乎 曰 未知 焉得仁

 

 子張(しちゃう)、問ひて曰く、令尹子文(れいゐんしぶん)は三(み)たび仕(つか)へて令尹(れいゐん)と為(な)れども喜(よろこ)べる色(いろ)無し。三たび之を已(や)めらるれども、慍(いきどほ)れる色(いろ)無し。旧(もと)の令尹の政(まつりごと)は、必ず以って新(あたら)しき令尹に告(つ)ぐ。何如(いかん)。子曰く、忠(ちゅう)なり。曰く、仁(じん)なるか。曰く、未(いま)だ知(ち)ならず、焉(いづくん)ぞ仁たるを得(え)ん。

 崔子(さいし)、斉(せい)の君(きみ)を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)、馬(うま)十乗(じふじょう)有り。棄(すて)て之(これ)を違(さ)る。他邦(たはう)に至(いた)りては、則(すなは)ち曰く、猶(なほ)吾が大夫(たいふ)崔子のごときなり、と。之を違(さ)る。一邦(いっぱう)に之(ゆ)いては、則ち又曰く、猶吾が大夫崔子のごときなり、と。之を違(さ)る。何如(いかん)。子曰く、清(せい)なり。曰く、仁なりや。曰く、未だ知ならず、焉んぞ仁たるを得ん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生の晩年の弟子に先生よりも四十八歳も年下の子張(しちょう)という若者がおりました。彼は、はしっこいというか配慮して待つことの苦手な性格で、真面目に一生懸命勉強するのだけれど、何でも出しゃばってやり過ぎる傾向があり、同僚からは軽く見られていました。理解は早いけれど、それだけについ何でも簡単に決めつけて深く考えることを抜かってしまう癖があったようです。その彼が先生に質問しました。

 令尹(れいいん)乃ち楚(そ)の筆頭(ひっとう)家老(総理大臣)である子文(しぶん)という方がおられましたが、この方は何度も令尹に任命されました。これは最高の栄誉であって普通なら誰でも大喜びするものです。それなのに子文は全く喜びの表情を見せませんでした。そしてまた何度も解任の憂(う)き目に遭(あ)ったのに、不満の表情一つも見せませんでした。それどころか、自分の地位を奪ったのだから妬みや怒りの標的になるはずの新令尹に対して、政務が滞(とどこお)らないように、新令尹が困らないように、誠実に引き継ぎを行ったそうです。これは如何(どう)考えれば善いのでしょうか。

 先生が言われました。

 子文は個人的な損得に全く左右されず、自分に課せられた義務を忠実に果たして、責任を全うしていますね。これこそが「忠」という可きでしょう。中々できることではありませんね。

 子張が言いました。

 それではそれを「仁」と言って善いのでしょうか。

 先生は言われました。

 忠と仁の間には大きな隔たりがあります。仁であるためには、忠だけでは足りません。仁に知は不可欠です。子文は未(ま)だ知には至っていません。如何(どう)して仁と言えるでしょうか。政(まつりごと)で大切なことは何ですか。庶民の暮らしを安定させることですね。「知」とは核心に沿って深く考えることです。仁であるためには、義務を忠実に熟(こな)すだけでは駄目なのです。そのことが、国にとって、庶民にとって如何なのか、ということを常に考えていなければなりません。

 子張が続けて質問しました。

 斉(せい)の家老の崔子(さいし)が主君を殺したとき、同じ家老の陳文子(ちんぶんし)は、馬車十乗(じゅうじょう)と馬四十頭という莫大な財産を全て棄(すて)て、斉の国を去りました。そして他所(よそ)の国に行きましたが、そこで言ったそうです。「何とここにも我が国の家老の崔子と同じような奴がいる」と。そしてそこも去って行きました。また別の国に行っても「ここにも矢張り我が国の家老の崔子と同じような奴がいる」と言ってその国も捨て去っていきました。これは何如(どう)理解すれば善いのでしょうか。。

 先生は言われました。

 陳文子は我欲のために礼を失して不正を行うことを、決して潔(いさぎよ)しとしなかったのですね。それを黙認したり従って悪の仲間入りをして地位や財産を守るよりは、地位も財産も総てを放棄してでも自分の信念に悖(もと)らない姿勢を貫くことを善しとしたのですね。これこそ「清(せい)」と言えるのではないですか。生半(なまなか)なことでできることではありません。

 そう聴いて子張は言いました。

 ではそれこそが仁と言えるのでしょうか。

 先生は言われました。これも矢張り未だ知にも至っていないですね。如何して仁と言えるのですか。知があれば、唯悪から逃れて自分の生き易い安心な場を求めるのではなく、この失われた礼を復活させるためには、自分は如何したら善いのか、何ができるのか、ということを考えるでしょう。

 

☆ 補足の独言

 これは「ああだったらこう、ああでなけれぱこう」と簡単に結論を出して深く叮嚀に視野広く考えることをしない子張に対する指導のように思われます。