5 公冶長第五 21

Last-modified: Wed, 15 Mar 2023 18:50:34 JST (414d)
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☆ 公冶長第五 二十一章

 

 子曰 甯武子 邦有道則知 邦無道則愚 其知可及也 其愚不可及也

 

 子曰く、甯武子(ねいぶし)、邦(くに)、道(みち)有(あ)るときは則(すなは)ち知(ち)なり。邦、道無きときは則ち愚(ぐ)なり。其の知には及(およ)ぶ可(べ)し。其の愚には及ぶ可からざるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生の数十年前に活躍した、衛の国の家老に、甯武子(ねいぶし)(姓は甯、名は兪(ゆ)、諡は武)という人がいました。衛の文公と成公(せいこう)に仕えた偉大な政治家です。文公は道に則(のっと)った正しい采配をする、正に文の諡(おくりな)に相応しい王さんでした。この文公の下(もと)では、甯武子は全身全霊で以てして文公を補佐して正しい政治をやってのけました。このことを先生は、

 甯武子(ねいぶし)は、邦(くに)に道(みち)が有るときには、確りと知者の本領を発揮して存分に活躍されました。

 と言われたのです。

 しかし、次の成公はとても名君とは言い難い王さんだったようです。他者(ひと)の上に立てば、必ず誹謗(ひぼう)中傷讒言(ざんげん)に見舞われ、暗愚な王さんはそれを信じて道を誤り、国を滅ぼしかねません。そのような中で誠意と知を尽くして正しい道を実践する、等ということは到底不可能なのです。王さんと国を守るためには、無能を装って皆から軽蔑されている必要があります。それができて初めて、裏から確りと王さんを支え守ることができるのです。

 先生はこう言われました。

 甯武子は、邦に道が無いときには愚(ぐ)を装うことに徹していました、と。

 そしてこのように言われたのです。

 甯武子の如き偉大な知者であれば、その知を用いて立派な仕事を成し得ることは誰にでもできることでしょう。しかし、国が無道の混乱の中にあって正義が通らない状態であれば、愚者を装って正義を主張することをしないようにしなければなりません。それだけであれば、賢い人ならば誰にでもできることです。世の多くの隠者達がそうです。我が身を守るためであれば、これが最善の最も安易な方法です。しかし、甯武子の愚者の真似は、我が身を守るためにしたのではないのです。国を守るために、我が身の困難危難を顧みずに、愚者を装いながら賢者以上の働きをしたのです。保身を知や賢と言うならば、甯武子の行ったことは愚の骨頂と言えるでしょう。甯武子は真の愚者、最高の愚者なのです。こればかりは何人にも真似のできるものではありません。保身は隠者に任せて、私は甯武子のようでありたいのです。

 

☆ 補足の独言

 清廉(せいれん)に身を保ち、自(みづか)ら知を極め、無道の世を憂(うれ)う隠者達から、「何を無駄なことを」と蔑まれ、忠告を受けながらも、決して自分の生き方を変えようとはしない孔子の芯を形成している信念がこの文章にも滲み出ている、と思い、このように訳してみました。

 

☆ 余談
 甯武子の魂は輪廻転生(りんねてんしょう)する中で、赤穂浪士の大石内蔵助(おゝいしくらのすけ)に転生して昼行灯(ひるあんどん)を決め込んで、殿の仇討(あだう)ちを完遂(かんすい)しました。そして劇(ドラマ)の中にも転生(てんしょう)して、昼行灯の駄目婿(むこ)同心(どうしん)を装(よそお)った必殺の仕事人、中村主水(もんど)となって、庶民の憂(う)さを晴らしてくれたのです。
 一方、孔子は先づ荘子として転生し、自分の思索をもっと深めました。忠や義といった大切なことを貫き通すために、馬鹿な振りをして相手を欺くのではなく、芯から愚かになることこそが大切なのだ、と訴えたのです。その後て西洋に生まれて、タローカードの大アルカナを作成し、二十一枚の札(カード)の上に、零番として愚者(フール)の札を置きました。愚かなことこそが最も素晴らしい最高のものなのだ、と皆に知らせたのです。そして日本で宮澤賢治として転生して、真に愚かであろうと、その実践に生涯を捧げました。
 宮澤賢治は孔子の生まれ変わりだったのです。二千五百年前と、気性の激しさも誠実で純粋な愛情も、全く変わっていません。
 雨ニモマケズ 風ニモマケズ (中略) 
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ クニモサレズ
 サウイフモノニ ワタシハナリタイ