5 公冶長第五 24

Last-modified: Thu, 11 Aug 2022 23:34:33 JST (631d)
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☆ 公冶長第五 二十四章

 

 子曰 孰謂微生高直 或乞醯焉 乞諸其鄰而與之

 

 子曰く、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂(い)ふや。或(あ)るひと醯(けい)を乞(こ)ふ。諸(これ)を其の鄰(となり)に乞ひて之に与(あた)へたり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 微生高(びせいこう)は良い奴ですね。しかし、一体誰が微生高を正直者だと言うのでしょうねえ。彼を正直者とはとても言えませんよ。現にこの前もこんなことがありました。誰かが微生高に酢を借りにいったところ、生憎(あいにく)彼も酢を切らしていたそうですな。それで彼は慌てて隣の家(うち)に酢を借りに行って、それを渡したそうではないですか。御苦労なことですよね。普通、こんな面倒臭(めんどくさ)いことは誰もしません。家(うち)も切らしているから隣に訊いてみて、と言えば済むことです。それをこゝまで親切に助けてあげるということは、素晴らしいことです。だから誰もが感心して、微生高は正直者だ、と言うのでしょうね。しかし実のところ、彼は不正直です。正直ではないけれど、正直者を越えたもっと良い人なのです。が、もっと能く考えてみると、難しい問題が出てきます。未来の人はこう言うそうです。「小さな親切大きな御世話、大きな親切ど偉い迷惑」と。こんなことを言うというのは、未来の世の中は今以上に世知辛い世の中になっているのでしょうかねえ。寂しくも悲しいことですね。しかしこのことには、大切な真実もあります。善意は何よりも大切なものですが、善意でありさえすれば良いというものではありません。善意は、相手の思いとずれているときには、中々厄介なものになることがあります。悪意でされることになら、反撃も否定も無視もし易いですが、私のために善かれと思って尽力してくれていることは、無下(むげ)には扱い悪(にく)いものです。手助けされて却って困ることであっても、気持ちは嬉しいから、正直に言えず感謝だけを述べることになります。

 また、助けてあげるということは、その人の抱え持っている苦労や困難を肩代わりして担(にな)ってあげる、ということですよね。辛(つら)い体験をしないで済むように配慮してあげる、ということです。しかし、苦労や困難は、心身の成長のために最も大切な糧となる宝です。乃ち助けるということは、その大切な体験をその人から奪ってしまう、ということにもなりかねないのです。が、また反対に、助けてもらえた喜びの体験がその人の善意を育てる糧になる場合もあります。中々難しいですね。そうこう考えてみると、矢張り基本的には、先づ正直であることが一番ということになるのではないでしょうか。正直に対処する中で、その機に応じて配慮、思い遣りができたら良いのでしょうね。

 

☆ 補足の独言

 善意の微生高を、不正直者だと非難する、と解釈してしまうと、宰我(さいが)に対する理不尽な非難よりももっと酷(ひど)い独善的な攻撃となって、如何考えてもそれはあり得ないこととしか思えません。これは逆説的に、善意の微生高を褒め讃えたものと観ることが一番自然なのではないでしょうか。と同時に「直」の大切さを述べたものと理解し、このように訳してみました。