5 公冶長第五 26

Last-modified: Fri, 02 Sep 2022 17:33:06 JST (609d)
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☆ 公冶長第五 二十六章

 

 顏淵季路侍 子曰 盍各言爾志 子路曰 願車馬衣輕裘 與朋友共 敝之而無憾 顏淵曰 願無伐善 無施勞 子路曰 願聞子之志 子曰 老者安之 朋友信之 少者懷之

 

 顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍(じ)す。子曰く、盍(なん)ぞ各〻(おのおの)爾(なんぢ)の志(こころざし)を言はざる。子路(しろ)曰く、願(ねが)はくは車馬(しゃば)衣(い)軽裘(けいきう)、朋友(ほういう)と共にし、之を敝(やぶ)りて憾(うら)むこと無からん。顔淵曰く、願はくは善(ぜん)に伐(ほこ)ること無く、労(らう)を施(ほどこ)すこと無からん。子路曰く、願はくは子(し)の志(こころざし)を聞かん。子曰く、老者(らうしゃ)は之(これ)を安(やす)んぜしめ、朋友(ほういう)は之を信ぜしめ、少者(せうしゃ)は之を懐(なつ)かしめん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 ある時先生は、顔淵(がんえん)(顔回がんかい)、季路(きろ)(子路しろ)と共に、団欒(だんらん)の一時(ひととき)を楽しんでいました。話の流れで、先生がふとこう言われました。

 由(ゆう)ちゃん(子路)回(かい)ちゃん(顔回)、それで貴方達は如何(どん)な思いで以て、何を自分に心掛けて、毎日を過ごしているのですか。

 問われると即座に衒(てら)いなく堂々と意見や思いを述べるのが子路の良さですが、このときも案の定でした。

 実は私は、恥づかしい情けない思いをしたことがあります。私は誰に対しても思い遣りと許しの心で接する「恕(じょ)」ゆるしの人になりたいと思っています。それで自分の大事な物も貸してくれと言われたら、喜んで貸していたのです。ところが或る時、大事な皮衣を破られてしまいました。そのときに「こんにゃろお」と怒りが起こったのです。嗚呼未だ未だ「恕(じょ)の人」には程遠いいなあ、と自分が情けなくなりました。ですから私は、車馬のような高価な物が手に入っても、高価な衣服や皮衣を持っていても、それらを皆と共有し、それが壊れても破れても、「いやあそれは困っただろうな」と思い遣り深く恕(ゆる)せる自分になりたい、と心掛けています。

 それを聞いて先生は答えられました。

 由ちゃんは本当に友を大切にする人ですね。とても善い志です。で、回ちゃんは如何ですか。子路と反対で、促(うなが)されなければ話そうとしない顔回が話し始めました。

 私も実は深く反省しているのです。思い遣りを有(も)って人に接するのは当然のことなのに、それができて喜んでもらえたときに、気が緩んでいると、どうだ、俺は立派だろう、と自慢する心が湧いてくることがあります。こんなことでは、先生から学んでいる仁者の道は程遠いです。もっと厳しく自分を律して、軽やかな自然体で然る可き当然のこと、乃ち善行が実践できるように、と心掛けています。それから、忙しかったり、体調が悪かったりしたときに、つい困難なことや面倒なことを後回しにして、他(ほか)の人にさせてしまう、というようなことにならないように、ということも心掛けています。

 それを聞いて先生は、満足そうに言いました。

 うん。由ちゃんは由ちゃんらしく、回ちゃんは回ちゃんらしくて善いですね。

 すると子路は子路らしく、即突っ込みを入れてきました。

 先生。一番教えて戴きたいことなのですが、先生はどのような志で以て日々を過ごしておられるのですか。

 先生は答えられました。

 そうですね。私はこのような人間になりたい、と心掛けています。

 年上の方は、私と一緒に居ると何も心配なくほっとして安らいで下さる。同輩の者は、私の言動に嘘偽りのないことが確信できて、喜びを有って共に語り合い作業できる。若者達は、私を信頼して慕って一緒に学んで成長してくれる。私の関わる総ての人が、私を信じ共に成長できるような、そのような人間になりたい、と願って努力をしています。

 その為には、由ちゃんの目指す、友への思い遣りと、回ちゃんの目指す、自分を律して自然体となる、という両方ができていなければなりません。私達の目指すところは同じですね。一緒に研鑽を励んでいきましょう。

 先生も子路も顔回も、この団欒の一時(ひととき)を存分に満たされて過ごしました。

 

☆ 補足の独言

 この章の言わんとするところは、三人の志の優劣を比較することではないでしょう。孔子の言わんとする理想の人間像に到達するためには不可欠の、思い遣りと自律、という二大要素があるのだ、ということを言わんがための章である、と思えてこのように訳してみました。