5 公冶長第五 27

Last-modified: Wed, 07 Sep 2022 16:37:11 JST (604d)
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☆ 公冶長第五 二十七章

 

 子曰 已矣乎 吾未見能見其過而内自訟者也

 

 子曰く、已(や)んぬるかな。吾未(いま)だ能(よ)く其の過(あやまち)を見て内(うち)に自(みずか)ら訟(せ)むる者を見ざるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が大きな溜息をつきながら言われました。

 嗚呼、この世ももうお終いですね。人は自己省察(せいさつ)があってこそ生きている意味があるのです。それなのに私は、自分の過ちを詳細に検討して見極め、それを自分自身の問題課題として公正に厳しく自(みづか)らに罰を課(か)し、反省して成長しようと心掛けている者を、未(いま)だ曽(かつ)て見たことがありません。嘆かわしいことではありませんか。

 そう言われた子貢は、先生の気持ちは痛いほど能くわかりますが、自分が先生と一緒に嘆くほどこのことが確(しっか)りとできている、という自信はとても持てないので、曖昧な返事しかできませんでした。でも先生は何時(いつ)もこういった愚痴を言った後(あと)は元気になって、また弟子の育成に励んでいかれるのを、子貢は能く知っているので、弟子達のところに戻って行かれる先生を安心して見送っていました。

 

☆ 補足の独言

 この言葉が、子路や子貢や顔回と出会う前の、若かりし頃の孔子の言葉だとしたら、字義通りに受け止めて理解することも可能です。しかしその当時の孔子には、自分がそれを実践することで精一杯で、弟子達や世の中の人々を観て嘆くゆとりなどなかったのではないでしょうか。大体その当時だったら、それを聞いて記録するような弟子もいなかった筈です。そうすると、これは晩年の孔子の歎きの言葉と採るのが順当に思われます。、孔子の時々発する愚痴と考えて良さそうですね。

 愚痴は、疲れてエネルギーの切れた心の状態を恢復(かいふく)させる、最良の特効薬です。そして、愚痴は得てして大袈裟な言い方になるものです。不満だけを取り上げて極端に表現してこそ、愚痴の威力は十全に発揮されるものだからです。