5 公冶長第五 4

Last-modified: Wed, 15 Dec 2021 15:38:09 JST (870d)
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☆ 公冶長第五 四章

 

 子貢問曰 賜也何如 子曰 女器也 曰 何器也 曰 瑚璉也

 

 子貢(しこう)問ひて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、女(なんぢ)は器(うつは)なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚連(これん)なり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 誤解している方が大変多いようなので、賜ぃちゃんの名誉のために言っときますが、賜ぃちゃんは先生に褒めてもらいたいのではありません。本当に真摯(しんし)に自分を磨きたいのです。あんなに優秀で世間からも高く評価されているのに、彼くらい自惚れなく謙虚に自分を見詰めることができている人は、弟子の中でも少ないのではないでしょうか。それは「論語」の他(ほか)の記事を見ても直ぐに分かる筈です。このときもそうでした。賜ぃちゃんは、先生が子賤をあれこそが君子だ、と言うのを聞いて、真剣に自分は君子から何(どれ)くらい離れているのだろうか、と考えたのです。

 そこで子貢が質問しました。

 この賜は如何(どう)なのでしょうか。

 子貢が自分と同程度の人物と思っている浅はかな連中は、「自分も褒めてもらおうと思って言うとる」と思って聞いていました。人は自分に合わせてしか他人を理解できないものです。

 先生は子貢に対しては何時もの様に、悪戯心(いたづらごころ)で答えられました。

 賜ぃちゃんは、器(うつわ)ですね。君子は器ではないですからね。

 予想通りの答えが返ってきたので、子貢は重ねて質問しました。何故ならば、先生が悪戯を言うときには、必ずその裏に真実が潜んでいるからです。子貢はそれを教わりたくて訊いたのですから。

 で、どのような器なのでしょうか。

 先生はそれに対しても謎の答えをなさいました。

 貴方は器は器でも、瑚璉(これん)ですね。それは古(いにしえ)の夏(か)王朝と殷(いん)王朝で祭器として用いられていた、最も高価で美しい、器の王とも言うべき代物です。

 子貢は先生のこの悪戯言葉の意味を真剣に考えました。

 瑚璉は、決して褒め言葉ではない。私が君子となるために必要な留意点を示してくださっているのだ。弁舌に頼り過ぎてつい華やかに目立って不興(ふきょう)を買ってしまうことがある。相手に不愉快な思いをさせるようでは、確かにとても君子とは言えないな。瑚璉は重要な器であるからして、普段使いしてはいけない。普段は大切に奥に納(しま)っておくものである。「君子は器ならず」(為政第二、十二章)と先生は言われた。君子は器ではなく、器の持ち主、器の使い手とならねばならないのだ。そうなれば、自分の瑚璉という性質が長所として生きるようになる、ということだ。

 子貢はもっともっと先生の言葉の意味するところを深く考えて多くを学び得たようですが、私の小さな器では、これ以上その内容は解りようがありません。

 

☆ 補足の独言

 この章も独断と偏見の強い意訳をしていますが、もう一つここで私の独断的妄想を言わせてもらいますと、三章四章の一連の出来事は、顔回の亡くなった後、後継者を育てるのに、頼りになるのは子貢だけしかいなくなった状況の中でのことではないか、と思います。顔回とは全く違うけれど、ちょっぴり顔回に近いような徳をもった子賤という若者の出現は、とても嬉しかったのでしょう。然しそれ以上に子貢への期待は大きなものがあると思います。

 孔子は茶目っ気の大きな人で、子路や子貢や宰我など、親しい弟子を初中終(しょっちゅう)からかったりふざけて意地悪を言ったりして楽しんでいたようです。

 この章も、「お前は君子失格だ」と思わせるような言い方を態(わざ)としてしょぼんとさせた上で、実はこんなに大きく期待しているのだ、ということを伝えているととれます。然し子貢はそれにめげるような性格ではなく、孔子の本心まで見抜いて真摯に対応してくるので、孔子としては安心であると同時に、今一面白みには欠けたのではないでしょうか。その点、子路はまじに落ち込んでくれるので、からかい甲斐(がい)もあり、楽しく愛(いと)おしかったのだろうな、と思うのです。