6 雍也第六 13

Last-modified: Wed, 04 Jan 2023 13:19:00 JST (485d)
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☆ 雍也第六 十三章

 

 子曰 孟之反不伐 奔而殿 將入門 策其馬曰 非敢後也 馬不進也

 

 子(し)曰(いは)く、孟之反(まうしはん、伐(ほこ)らず。奔(はし)りて殿(しんがり)す。将(まさ)に門(もん)に入(い)らんとして、其(そ)の馬(うま)に策(むちう)ちて曰く、敢(あへ)て後(おく)れたるに非(あら)ざるなり。馬進(すす)まざればなりと。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 哀公十一年(西暦紀元前四百八十四年)といえば、先生が旅を終えて、六十九歳にして漸(ようや)く祖国魯への帰国が許された年です。その年、未(ま)だ帰る前に魯国では大事件が起こりました。隣国斉(せい)との戦争です。季孫家の家老をしていた冉有(ぜんゆう)は、異国にいる先生の遠隔指導を受けて、魯国の家老である季康子達三桓に助言しながら、斉との戦いに臨(のぞ)みました。その結果、孟武伯(もうぶはく)が魯国の右備えの部将に、冉有は左備えの部将に任じられて、攻めてくる斉軍に立ち向かうことになりました。冉有は斉軍を撃破しましたが、孟武伯の方は斉軍に撃破されて敗走します。

 負けて逃げるときは兵士は戦う気力を失っています。そこへ勝ち戦(いくさ)で勢いづいた敵が襲いかかってくるのです。この恐怖の極みの中で、前方の怯(おび)えて逃げる味方を守りながら、後方の襲いかかってくる敵を防がなければならない、それが殿(しんがり)の役割です。それを進んで引き受ける、ということは、実に勇気のある賞賛す可き行為です。孟武伯の軍が総崩れになったとき、武伯の下(もと)で戦っていた孟之反(もうしはん)がこの英雄的行為を引き受けました。そして、その後(あと)の彼の言動も含めて、その情報が先生のところに早馬で届けられました。

 それを聞いて先生は言われました。

 孟之反(もうしはん)(『春秋左氏伝』(哀公十一年)では孟之側(もうしそく)となっています)は自分の手柄を誇(ほこ)って喜ぶことを悪(あ)しとする、謙虚な素晴らしい人柄ですね。城門まで無事に逃げ帰れたと確認したら、如何にもずっと必死で逃げてきたかのような振りをして馬に鞭を当てて駆け込んだそうです。そして言った言葉が洒落(しゃれ)ていると言うか、憎いですねえ。「馬も善(よ)う頑張って共に戦ってくれたので果(ば)てていたのでしょうなあ。必死で逃げようと鞭打っても走ってくれんのですよ。で如何(どう)しようもなく後駆(しんがり)を努めざるを得なかった訳で。私は決して勇者でも英雄でもありませんよ。はゝゝ。」と言ったそうです。

 斉との戦自体は、冉有や彼の後輩の樊遲(はんち)の活躍で、何とか斉を追い払うことができました。

 そして冉有は孟之反と同じように、手柄を自分のものにはせず、先生の御陰にして、無事先生を魯国に連れ戻すことに成功するのです。

 

☆ 補足の独言

 この章は珍しく出来事の年代が特定できる話です。それでその前後の出来事を繋げて一つのお話しにしてみました。