6 雍也第六 21

Last-modified: Thu, 30 Mar 2023 23:50:57 JST (399d)
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☆ 雍也第六 二十一章

 

 子曰 知者樂水 仁者樂山 知者動 仁者靜 知者樂 仁者壽

 

 子(し)曰(いは)く、知者(ちしゃ)は水(みづ)を楽(たの)しむ。仁者(じんしゃ)は山(やま)を楽しむ。知者は動(うご)く。仁者は静(しづ)かなり。知者は楽しむ。仁者は寿(いのちなが)し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る時、誰かが先生に質問をしました。

 「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」ということを聞いたのですが、これは一体如何(どう)いうことを言っているのでしょうか。

 先生が言われました。

 知者と言えるような立派な人は水が好きで、それよりもっと立派な仁者と言われる人になると、山を好む、という話は私も聞いたことがありますね。このようなことが一概(いちがい)に言える訳はないのですが、何故(なぜ)こんなことが言われるのか、ということを考えてみるのも一興(いっきょう)ですね。

 前にも言いましたが(雍也第六、二十章)、学問は知からはじまります。「学びて時にこれを習ふ、また説(よろこ)ばしからずや。(学而第一、一章)」学問が楽しくて堪(たま)らない人は、我が知を広め深めるために実に活発に動き回っています。正に清き川の流れのようです。これこそが正(まさ)しく知者の姿なのでしょう。

 心には、自分と似たものを好み、それに魅(ひ)かれる、という性向があります。反対のものに魅かれる、という性向もあって、それが心の面白いところなのですが、それは一寸(ちょっと)置いときましょう。生命力に満ち溢(あふ)れた若々しい知者は、自分の心の姿を映し出してくれているかの如(ごと)くの水の流れに対して共感を覚え、魅かれることが多いのではないでしょうかね。

 仁者になると、基本的な知の吸収活動は終えています。勿論、「学びて習う喜び」は生涯衰えることなく続いていますが、自分に対しても他人(ひと)に対しても、信頼感や肯定感が深く生じてきて、不動の安定感が滲(にじ)み出てきているものです。それはどっしりと座って皆を看守ってくれている山そのものの雰囲気です。そのような山に共感して魅かれる、と言われると、そうだな、と思えますよね。

 知者の活動は、心の動くまゝに素直に好奇心を発揮することの素晴らしさを教えてくれています。「知者は動(どう)」なのです。それに対して仁者の静けさは、それら総てのものを理解して、心穏(おだ)やかに居てくれることの大切さを教えてくれています。「仁者は静(せい)」なのですね。

 知者の姿は、最も大切な「喜び楽しむ心」そのものなのです。その上で総てが肯定できる安定感があれば、天寿(てんじゅ)を全(まっと)うできる、と言うのも解る気がします。

 しかし間違えないで欲しいのですが、長寿が天寿ではありません。天の知は人知を超えたものです。天から与えられた命(めい)、生命(いのち)を人知で推(お)し量ることはできません。仁者は天の与えた寿(いのち)を喜んで受け容れ、その長さに関係なく全(まっと)うできるのです。

 顔回が死んだとき、私は愚かにも取り乱してしまいました。それは私が、知る可(べ)くもない天命を、理解した心算(つもり)でいたからです。天は個人の慾望を叶えてくれるものではありません。天は宇宙の全存在を司(つかさど)っています。総ての存在が善きようにと計らっているのです。顔回は自分の死を受容しました。私も今は、顔回の死を受け容れています。顔回の死が、天命の真の意味を私に教えてくれました。

 若々しい知者の心で以て、総ての事象を楽しみ喜んで受容する。そしてそれを、仁者の心で以て寿(ことほ)ぐ。乃ちそれは、天から与えられた寿(いのち)を心豊かに素直に受け止めて感謝する、ということなのです。これこそが、仁者の真の姿、本質なのではないでしょうかね。

 

☆ 補足の独言

 この章は、孔子が言いそうだけれど、何か違う、という感じがして仕方ありません。譬(たと)えが美事なようで浅はかな感じが拭(ぬぐ)えません。それでこのように訳してみました。

 浅はかな感じの一番は、最後の「仁者は寿(いのちなが)し」というところかな、という気がします。中国では現世利益(げんせいりやく)の発想が強く、不老長寿が何よりの願いである、と聞きます。孔子もそうであれば、このまゝ納得する可きなのでしょうが、そうは思えないのです。この「寿(じゅ)」は、「いのちながし」と読むのではなく、「ことほぐ(言祝ぐ)」と読んだ方が良いのではないか、と思うのですが、如何(どう)なんでしょうかねえ。

 孔子はこう言っています。「之(これ)を知(し)る者(もの)は、之を好(この)む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽(たの)しむ者に如かず。」(雍也第六、十八章)と。この章で言う知者はこの最高の「楽しむ」ができている人です。その上に仁者の有りようがある、ということになると、「之を楽しむ者は、之を寿(ことほ)ぐ者に如かず」ということになるのではないでしょうか。この「寿ぐ」は、天に感謝する、という意味に理解できる、と思います。