6 雍也第六 24

Last-modified: Mon, 29 May 2023 20:04:20 JST (340d)
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☆ 雍也第六 二十四章

 

 宰我問曰 仁者雖告之曰井有仁焉 其從之也 子曰 何爲其然也 君子可逝也 不可陷也 可欺也 不可罔也

 

 宰我(さいが)問(と)ひて曰(いは)く、仁者(じんしゃ)は之(これ)に告(つ)げて井(せい)に仁(じん)有(あ)りと曰(い)ふと雖(いへど)も、其(そ)れ之(これ)に従(したが)はんか。子(し)曰く、何為(なんす)れぞ其(そ)れ然(しか)らん。君子(くんし)は逝(ゆ)かしむ可(べ)し。陥(おちい)らしむ可からず。欺(あざむ)く可し。罔(し)ふ可からず。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 仁者は他人(ひと)のために尽(つく)す、といった内容の話を色々と教わった宰我(さいが)(宰予(さいよ))は、その教えを実践するために、様々な状況を想定して考えてみました。そしてはたと難問に打付(ぶつ)かってしまったのです。悪意のある攻撃に対して、心の広い人であれば如何(どう)対処するのだろうか。嘘を信じて行動すれば、こちらが殺(や)られてしまう危険があるが、疑うのは自分の心の狭さ、ということになりはしまいか・・・考え倦(あぐ)ねた宰我は、先生に尋(たづ)ねました。

 先生、仁者というのは、「立派な人が井戸に落ちたぞ。早く井戸に入って助けてやってくれ」と告(つ)げられたら、その請(こ)われた通りに従って、井戸の中に飛び込むものなのでしょうか。

 予(よ)っちゃん、中々能く考えましたね。とても大切な良い質問です。しかし解答は間違っていますね。仁者とか君子と言われるような心の大きな人は、そのようなことは決してしませんよ。仁者や君子は「お人好し」です。良い人なのです。世間では、賢い人が立派な人だと思われています。しかしこの世間で言う賢さは、損得を考えて、自分が損をしないで得するように巧く振る舞える人のことを言います。ですから、他人(ひと)の得を考えて自分が損をするような振る舞いをする人に対しては、愚かであるとしか思えません。それは自分中心の視野しか有(も)てない、心の狭い人、小人だという証(あかし)ですね。心の広い人である仁者や君子は正反対です。相手のことを考えるお人好しですから、簡単に騙(だま)されます。しかし仁者や君子はお人好しではあっても愚かではありません。嘘だと解っていても、万が一ということもあり得ますから、急いで駆けつけます。しかし常に全体の状況を能く観て把握しています。そしてこの状況に於いて最も適切な対処は何か、ということを即座に見て取って迅速な行動をするのです。ですから嘘で以て危険な目に遭(あ)わせることは不可能です。心の広い人に対しては、嘘をついて騙すことはできても、罠に嵌(は)めることはできません。

 それともう一つ。仁者にとっては、落ちた人が立派な人でなくても、如何(どん)な人であっても全く同じことですよ。

 先生はにっこりと笑いました。宰我は得心して、謎が解けたことで満足しましたが、加うるに、仁者の心の広さ、それ故の公平な愛情を改めて思い知って喜びました。

 

☆ 補足の独言

 この章は、宰我の捻(ひね)くれた性格を表している話である、といった解説をよく見ますが、こんなことで先生を困らせることができる、などと考える程に、宰我がお粗末な人物であるとは思えません。宰我は、教わったことを能く考えもしないで鵜呑(うの)みにする、ということをしない、真摯(しんし)な学究的(がっきゅうてき)態度を持ち続けた人なのであろう、と思われます。そして解らないことがあれば、直ぐに直截(ちょくせつ)に先生に質問をする、という風(ふう)にしていたのではないでしょうか。考えることをしない鵜呑みの弟子達は、それを聞いても真意は全く解らず、仕様(しょう)も無い分かり切った質問、訳の解らんとち狂(ぐる)った質問、捻くれた意地悪な質問、としか理解できなかったものと思われます。

 この章の宰我の質問は、先生の言葉を唯聴くだけだと、何も引っ掛からずに素直にその通りだと理解できて終わるような内容です。しかしこれを実践し続けていると、何時か必ず打(ぶ)ち当たる問題です。真剣に取り組んでいなければ出てこない問題なのです。宰我の素晴らしさが彷彿としてくる章ですね。
 それにしてもこの章などは、宰我を肯定的に捉(とら)えるか否定的に捉えるかで、解釈が丸っ切り違ってきます。真実が解らないまゝに誤解されて蔑まれる、ということになったのだとしたら、居た堪(たま)れなく辛(つら)く申し訳のないことです。自分自身がそのような過ちを犯すことがないように、『惟(ただ)仁者のみ能(よ)く人を好(よみ)し、能く人を悪(にく)む。』(里仁第四、三章)という孔子の言葉を、確(しっか)りと噛(か)み締(し)めていたい、と思います。君子には程遠い我々小人が、他人(ひと)を憎み嫌って批難攻撃したならば、それこそ傲慢(ごうまん)以外の何者でもないでしょう。
 「あなたたちの中で罪を犯したしたことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(基督教聖書ヨハネ福音書八章姦通の女)(文は新共同訳)というイエスの言葉も同じ思いと理解しても良いのではないでしょうか。