6 雍也第六 27

Last-modified: Mon, 12 Jun 2023 19:56:31 JST (326d)
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☆ 雍也第六 二十七章

 

 子曰 中庸之爲德也 其至矣乎 民鮮久矣

 

 子(し)曰(いは)く、中庸(ちゅうよう)の徳(とく)為(た)るや、其(そ)れ至(いた)れるかな。民(たみ)鮮(すく)なきこと久(ひさ)し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 何事も、偏(かたよ)らない、ということこそが大切なことです。物事は総て多面的です。一面だけで真実は捉(とら)え切れるものではありません。何かを知ったとき、それだけが正しい、と思ったならば、それは間違いなのです。それは正しいかも知れません。でも角度を変えて見たならば、全く違った側面が見えるかも知れません。円錐(えんすい)は真横から見れば三角形に見えますが、真上から見ると真ん丸に見えます。何方(どち)らも間違ってはいませんが、円錐であることを満たしてはいません。また真ん丸な地球は、見る位置によって、日本が見えたりアフリカ大陸が見えたりします。日本が見えているときにアフリカが見えないから、アフリカ大陸は地球に存在しない、と言ったら間違いですね。偏った見方というのは、そのような一面的な見方なのです。そのような見方をされたのでは、誤解と偏見の大洪水となって、庶民は度偉い被害や迷惑を被(こうむ)ることになってしまいます。どの方向にも偏らない真ん中、というのは、全方向が視野に入っている、ということです。そのようだと総ての人の立場や思い、願いといったものが見えてきます。そのような見方ができたならば、庶民の受け取れる恩恵というのは計り知れない程のものがあるのです。何事に於いても言えることですが、「中(ちゅう)」の在り方、姿勢というのは、皆に安心感を与え、多大な恩恵を齎(もたら)す至高のものなのです。ですが今や、この最も大切な「中」を貫ける人が殆(ほとん)ど居なくなってしまいました。その為に、民がその恩恵を受ける、ということが殆どなくなって、もう随分と長い年月(としつき)が過ぎ去ってしまいました。本当に何とも嘆かわしいことです。

 

☆ 補足の独言

 昔(中学生頃だったかな)、孔子の哲学の中核を為す重要な用語として、釈迦の主張する「中道(ちゅうどう)」に対して、「中庸(ちゅうよう)」という言葉がある、と教わりました。しかし、原典の論語を読んでみると、「中庸」という言葉は、この章に出てくる一度しかありません。この言葉は、どうも孟子(もうし)とその系統の人達が主張した、難解な有り難い哲学理論のようです。孔子は「中(ちゅう)」ということの大切さを繰返し主張しています。この章の「中庸」も、「中」と理解すれば良いのではないでしょうか。

 また、この章の一般的な解釈では、民(たみ)、一般庶民に対して「中庸」「中」であることを要求しているように取れます。しかし孔子は何時でも、苦しんでいる庶民に平和が訪れるためには、為政者は如何(どう)在らねばならないか、ということを説いているのではないでしょうか。このような思いから訳を試みてみました。