6 雍也第六 3

Last-modified: Sun, 23 Oct 2022 02:02:12 JST (559d)
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☆ 雍也第六 三章

 

 子華使於齊 冉子爲其母請粟 子曰 與之釜 請益 曰 與之庾 冉子與之粟五秉 子曰 赤之適齊也 乗肥馬 衣輕裘 吾聞之也 君子周急不繼富

 原思爲之宰 與之粟九百 辭 子曰 毋 以與爾鄰里郷黨乎

 

 子華(しくわ)、斉(せい)に使(つかひ)す。冉子(ぜんし)其の母(はは)の為(ため)に粟(ぞく)を請(こ)ふ。子曰く、之に釜(ふ)を与(あた)へよと。益(えき)を請ふ。曰く、之に庾(ゆ)を与へよと。冉子之に粟(ぞく)五秉(へい)を与ふ。子曰く、赤(せき)の斉(せい)に適(ゆ)くや、肥馬(ひば)に乗り、軽裘(けいきう)を衣(き)たり。吾之を聞けり。君子は急(きふ)なるに周(あまね)くして富(と)めるに継(つ)がずと。

 原思(げんし)、之が宰(さい)と為(な)る。之に粟(ぞく)九百(きうひゃく)を与(あた)ふ。辞(じ)す。子曰く、毋(なか)れ。以って爾(なんぢ)の隣里(りんり)郷党(きゃうたう)に与へんか。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生は、弟子の子華(しか)(公西赤(こうせいせき)の字(あざな))を斉(せい)の国への使いに出されました。先輩の冉先生は、子華の母親の身を案じて、先生に子華が出張中の手当を出してやって欲しい、とお願いしました。先生は怪訝(けげん)な顔をされましたが、こう言われました。

 十日分の生活費を出しましょう。

 それを聞いた冉有は、それでは幾ら何でも少な過ぎる、と思って言いました。

 もっと出して戴けないでしょうか。

 先生は不満そうな顔のまゝで言われました。

 では一月(ひとつき)分出しましょう。

 気の弱い冉有は、それでは未だ少な過ぎて可愛そうだ、と思ったのですが、それ以上は言えなくて、引っ込んでしまいました。子路ならば明瞭(はっきり)自分の思いを言って、その場で先生にお説教されているところでしょう。しかし冉有はそれ以上は言わずに、自分が正しいと信じている思いを実行しました。何と、三年分もの生活費を渡したのです。

 先生は後(のち)にそのことを聞いて、嘆いて冉有に言われました。

 赤(せき)ちゃん(子華)は斉に行くときに、能く肥えた元気な馬に乗り、高価な着心地の良い服を着ていました。昔からこのように言われています。「君子は今困っている人には援助を惜しまないが、裕福な人に対しては不必要な恵みはしない」と。赤ちゃんは馬をちゃんと養い、上等な服も誂(あつら)えることができているのです。お母さんが生活に困るようなことを彼がする訳がないでしょう。有(ゆう)ちゃんの思い遣りはとても良いのですが、視野をもっと広く持たねばなりません。貴方のしたことは、君子の在り方に反することになるのですよ。

 また、こんなこともありました。

 先生は五十歳を過ぎて魯国の要職に就きましたが、その時に自分の領地の家老として原思(げんし)(原憲(げんけん)字は子思(しし))という貧しい家の出の弟子を採用しました。そして、粟(ぞく)九百という高額の給料を出したのです。ところが原思は「そのような高額を受け取ることはできません」と断りました。先生は言われました。

 断ってはいけません。これは正当な給料ですから。君子は不当な金品は決して受け取りませんが、正当であれば感謝して受け取ります。余るのであれば、近隣の生活の困窮している人に与えることができますね。それが君子のお金の使い方であり、貴方が一番望んでいることではないですか。

 この二つの出来事から、先生のお金に対する姿勢が能く解ると思います。

 

☆ 補足の独言

 この章では冉有は冉子、冉先生と呼ばれています。冉子とある章が冉有の弟子が書いた章ではないか、と考えられますが、それにしては、冉有の名を貶(おとし)めるような内容が沢山あります。如何(どう)いうことだろう、と思うのですが。

 冉有は孔子にがっかりされたり叱られたりする記事が多いようですが、誠実さはピカ一で、能力実力は非常に高かったようです。只、気が弱くて正義を貫き通すことができない引っ込み思案なところが、何時も孔子に叱られるところになっているようです。冉有のこの気の弱さは、彼の思い遣りの深さの裏返しになって出ているもののように思われます。この章に於いても、子華とその母に対する、深過ぎて浅はかになってしまった思い遣りが徒(あだ)となってしでかした失敗、と言えるのではないでしょうか。叱られても叱られてもその失敗を隠さず努力し続ける、冉有のあきらめない誠実な姿は、後輩達にとって実に頼りになる先輩だったのではないでしょうか。孔子が魯に帰れたのも、冉有の誠実な尽力のお陰てすからね。冉有が自分の師匠でなくても、またどんなドジをしていても、彼を冉子、冉先生と呼んで信頼し敬愛する後輩が沢山いたのではないでしょうか。