6 雍也第六 4

Last-modified: Sun, 30 Oct 2022 23:44:38 JST (551d)
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☆ 雍也第六 四章

 

 子謂仲弓曰 犂牛之子 騂且角 雖欲勿用 山川其舍諸

 

 子(し)、仲弓(ちゅうきゅう)に謂(い)ひて曰(いは)く、犂牛(りぎう)の子(こ)、騂(あか)くして且(か)つ角(つの)あらば、用(もち)ふること勿(な)からんと欲(ほっ)すと雖(いへど)も、山川(さんせん)其(そ)れ諸(これ)を舎(す)てんや。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が仲弓(ちゅうきゅう)(冉雍(ぜんよう))にこんな話をされました。

 御存知のように、多くの牛は、毛色が斑(まだら)で農耕に使われています。これを犂牛(りぎゅう)と言いますが、時にこの犂牛が美しい騂牛(せいぎゅう)、毛色の赤い牛を産むことがあります。周王朝は、五行説(ごぎょうせつ)に基づいて、木・火・土・金・水(もくかどごんすい)のそれぞれの色、蒼(あを)・赤・黄・白・黒の、他の色が混じらない(斑でない)単一の正色(せいしょく)を高貴な色として好みました。取り分け、周王朝は「火(ひ)」なので、赤色が最高のものとされたのです。祭祀(さいし)用の生贄(いけにえ)に抜擢(ばってき)されるには、角(つの)の立派な赤毛の牛(騂牛)が最も敬(うやま)われたのです。親がどんなに価値の低い犂牛であっても、生まれた仔が騂(あか)であれば、価値の解らない者が幾ら犂牛と同じに扱おうとしても、自然界、天の神が見逃す訳がありません。必ずや栄誉が与えられて、皆が認めるようになります。大切なのは、出自(しゅつじ)ではなく、個人の資質と努力なのです。勿論、生贄になって殺されることが望む可きこと、と言っているのではありません。天も認めて喜ぶほどの素晴らしさをその騂(あか)の仔牛が有(も)っている、ということです。巷(ちまた)の非難中傷に惑わされて落ち込む必要など全くありませんよ。

 

☆ 補足の独言

 『荘子』雑篇、列禦寇(れつぎょこう)篇には、これと正反対と思える内容が書かれています。(列禦寇というのは、荘子と同じく諸子百家(しょしひゃっか)の道家(どうか)に属する思想家、列子(れっし)の名前です。)

 「祭りの犠牲の牛は、飾りたてられて、上等の牧草や豆を与えられて大事に敬われていますが、いざ祭りの日になると、引き出されて祖先の霊廟に入れられ、供物(くもつ)として屠殺されてしまうのです。 その期に及んで、独り貧しく自由に生きる子牛でありたいと願っても、如何(どう)しようもないのです。」

 また『荘子』外篇、秋水(しゅうすい)篇にも同様の話が載っています。

 「殺されて、国政を占う神聖な亀甲(きっこう)として廟堂(みたまや)に後生大事に飾られ崇(あが)められるよりも、生きて尻尾を泥の中に引き摺(ず)っている方が良い。」と。

 若しかしたら荘子は論語のこの章に対する批判としてこれらを書いたのか、とも思いますが、これは孔子と荘子の価値観の違いなのでしょうね。生命(いのち)が大事か心が大事か、という問題かも知れません。孔子は明らかに生命よりも心が大事だ、という信念で一貫しています。「吾が道、一以て之を貫く。」(里仁第四、十五章)一(いつ)とは仁、乃ち心である、と。ここでも仲弓に対して、自分らしく正しく道を歩んでいることに自信を持ちなさい。天は必ず見ているから、と言っているのです。

 では荘子は如何(どう)か。一見すると、心より生命の方が大事だ、と言っているように見えます。煌(きら)びやかに着飾って崇められて殺されるより、貧しくても自由な子供でいたい、好き勝手に泥の中でも這い摺り回っていたい、と言っている訳ですから。でも能く見て下さい。彼は決して、心より生命が大事だ、と言っているのではありません。自由を奪われるのが嫌だ、と言っているのです。心が殺されるのが嫌だ、と。

 荘子くらい死を恐れなかった人は珍(めづら)しいでしょう。若しかしたら孔子よりも上だったかも、なんて。如何ですかね。

 孔子も荘子も生命よりも心を心底大切にした人達です。唯、孔子にとって心は、和のために律することが大切であり、荘子にとっては自然体の自由こそが心の核心であった、と言えるのではないでしょうか。余りにも荒っぽ過ぎる纏(まと)め方であることは重々承知の上で、言いたい放題言わせてもらいました。