7 述而第七 11

Last-modified: Wed, 27 Sep 2023 18:06:56 JST (219d)
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☆ 述而第七 十一章

 

 子曰 富而可求也 雖執鞭之士 吾亦爲之 如不可求 從吾所好

 

 子(し)曰(いは)く、富(とみ)にして求(もと)むべくんば、執鞭(しつべん)の士(し)と雖(いへど)も、吾(われ)も亦(また)之(これ)を為(な)さん。如(も)し求(もと)む可(べ)からずんば、吾(わ)が好(この)む所(ところ)に従(したが)はん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 誰かが先生に尋ねました。

 先生は富を得よう、ということはなさらないのですか。

 先生は言われました。

 若しも天が、富というものは大切なものであるから、人が精一杯努力して求める可きである、と告げているのであれば、大名行列の露払(つゆはら)いのような嫌な仕事であっても、私はそれをするでしょう。道行く人を「邪魔だ、あっちへ行け」と、権力を笠に着た腕力で以て追い払うような傲慢(ごうまん)な仕事など、死んでも嫌ですが、それでもそれが正しいことであるのならば、やりますよ。

 でも若しそうでないならば。富は求む可き大切なものではない、ということであるのならば、私は無理をして自分の思いに逆らってまでも富を得る努力をする、という気など更々(さらさら)ありませんね。その時には私は、本当に自分がしたいこと、していて楽しいことを遣っていくだけです。それが天の意(こゝろ)に適(かな)うことなのではないでしょうか。

 ところで貴方は、富はどちらだと考えますか。

 

☆ 補足の独言

 「執鞭之士(しつべんのし)」というのは卑(いや)しい仕事、身分の低い者のする仕事と解されることが多いようですが、孔子にはそのような差別意識はないように思います。差別意識に基づいて差別されたことでも遣る、と差別を否定しているということではないでしょう。頭っから差別感覚などなく、内容が自分の信念に悖(もと)るから嫌な仕事だ、と言っているのだと思います。「然(そう)でないなら、吾が好む所に従はん」。「執鞭の士」の反対を「好む所」と言っているのです。乃ち「好む所」の反対の「執鞭の士」が「好まざる所」ということになります。

 この章は、孔子の自発的な発言とは思い難(にく)いです。大切なことではあっても、態々(わざわざ)取り上げて話をするような内容とは思えないからです。富のことを尋(き)かれたから答えた、ということだと思います。それで前後を付け足して訳してみました。