7 述而第七 12

Last-modified: Sun, 01 Oct 2023 09:57:43 JST (215d)
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☆ 述而第七 十二章

 

 子之所愼 齊戰疾

 

 子(し)の慎(つつし)む所(ところ)は、斉(さい)・戦(せん)・疾(しつ)。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生は、一人々々が正しく生きる、ということを何よりも大切にしておられました。御自身の生き方も同様です。先生にとっては、それが天命に沿った謙虚な在り方だったのだと思います。生きるというのは、生命(いのち)があるとか、死んでないということではありません。自分の生を正しく全(まっと)うする、ということです。何故生きているのか、何の為に生きているのか、生命は如何してできたのか等々(などなど)何も解りません。しかし如何(どう)であっても、現に生きていることは事実です。そのことを素直に受け止めなければなりません。そうすると、この理解不可能な生命(いのち)というものに対して、慎み深く謙虚にならざるを得なくなるのです。

 生命(いのち)は死と切り離すことはできません。生は必ず死によって終わります。この生から死へと移行するときというのが最も強く、生きるとは何か、ということを突きつけられるときです。人が亡くなることから始まって、祖霊として祭られ、氏神や祖霊となって子孫を守ってくれている鬼神(きじん)達を言祝(ことほ)ぐ儀式が祭祀(さいし)です。祭祀を執(と)り行う前には物忌(ものいみ)が行われますが、これを斎(さい)と言います。先生はこの斎を何にも増して深く受け止めておられました。その中でも特別深かったのは、最初の葬儀の時です。その人の死を悼(いた)み、その人の生を確(しっか)りと省(かえり)みて、天命である生命(せいめい)を感じ取っておられるように見受けられました。その姿は正(まさ)に「愼(しん)」そのものです。

 「齋(斎)(さい)」とは「齊(斉)(せい)」のことです。呼吸を整えて心を静かに落ち着けることです。そして「斉(せい)」は斉一(せいいつ)、総てが等しい、皆平等である、ということをも意味します。死は天子や王さんであっても、免(まぬか)れることはできません。一切の生命(いのち)に対して平等なのです。そのような死というものを、心を静かに落ち着けて確りと感じ取り、生を深く思い遣る。これが先生の潔斎(ものいみ)の在り方だったのでしょう。先生の斎(ものいみ)は、決して儀式ではなく、心を鎮(しづ)めて天命である生死(しょうじ)を謙虚に深く省(かえり)みることだったと思われます。そう考えると、「ものいみ」を表すのに「斎(さい)」ではなく「斉(せい)」の字を用いて「さい」と読み「ものいみ」を表すということが一番適切かな、と思います。

 そのような先生にとっては、天命である生命(せいめい)を全うすることが大切ですから、それを大きく阻(はゞ)む「戦争」と「病気」に対しては矢張り、深く慎んで慎重が上にも慎重に気を使っておられました。

 

☆ 補足の独言

 この章も、孔子の実際の姿を述べたものとは考え悪(にく)く、悩んでいます。孔子が本当に心を砕いたのは潔斎(けっさい)ではなく、死そのものではなかったのか。そして戦争や病気に対しては、論語の全体を通して見たときに、他(ほか)と比べて特別に、と言えるようなことだったのだろうか、という疑問です。その為、このような持って回ったややこしい訳になってしまいました。お恕(ゆる)しあらんことを。