7 述而第七 15

Last-modified: Fri, 20 Oct 2023 10:28:06 JST (196d)
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☆ 述而第七 十五章

 

 子曰 飯疏食飮水 曲肱而枕之 樂亦在其中矣 不義而富且貴 於我如浮雲

 

 子(し)曰(いは)く、疏食(そし)を飯(くら)ひ水(みづ)を飲(の)み、肱(ひぢ)を曲(ま)げて之(これ)を枕(まくら)とす。楽(たのしみ)亦(また)其(そ)の中(うち)に在(あ)り。不義(ふぎ)にして富(と)み且(か)つ貴(たっと)きは、我(われ)に於(おい)て浮(うか)べる雲(くも)の如(ごと)し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 誰かが尋ねました。

 先生は、職を失って困窮(こんきゅう)する破目(はめ)に陥(おちい)ったならば如何(どう)なさるのですか。

 先生は言われました。

 今正(まさ)にそうですが、まあ、その時には、粗末な食事でも食べることさえできれば善いし、酒はなくとも、水さえあれば生きていけます。寝るときも、何もなくても、曲げた腕(うで)を枕にしてごろんと横になれば、ぐっすりと眠ることができます。これで充分ではないですか。そのような生活の中にも、楽しみは充分にあります。

 欲望に負けて自分の信じる道から外れて後悔する、というようなことにならなければ善いのです。希望に向かってやりたいように楽しくやっていく、ということに於いては、貧乏は何の障碍(しょうがい)にもなりません。却って余計な荷物がなくて遣(や)り易(やす)いくらいです。手に入(はい)らぬものを求めて嘆いていても詮(せん)無いことです。どのような環境でも、その中でできることは幾らでもあります。折角の良い機会なのだから、それを楽しめば良いだけです。富や地位を得るために、自分の信念を曲げてまでして齷齪(あくせく)する気など、私には全くありませんね。富や地位というようなものは、遙か彼方にある浮雲(うきぐも)のようなものです。私が努力して何とかできるものではありませんね。地位や財産は、決して確固(かっこ)として頼れるものではないのですから。浮雲は、私の力の及ばぬところで、ふらふらと動いたり、大きくなったり小さくなったり、そして何時の間にか消えてしまったりしています。消えてしまうと晴れ渡って気持ちよいものですが、大きくなり過ぎると大雨になって、偉い目に遭うかも知れませんねえ。

 

☆ 補足の独言

 この章の言葉は、孔子よりも老子(ろうし)や荘子(そうし)が言いそうな言葉ですね。でもまあ、孔子が言ったとしてもそんなに変(おか)しくはないか、と思います。それで、もうちょっと荘子寄りに潤色(じゅんしょく)して訳してみました。

 孔子寄りだと、こうなるのかな。

 『常々言っていますが、どんな環境であっても、楽しむ心、ということが一番大切です。銭(かね)がなければ、粗末な食事でも食べることさえできれば善いし、酒はなくとも、水さえあれば生きていけます。寝るときも、何もなくても、曲げた腕を枕にしてごろんと横になれば、ぐっすりと眠ることができます。これで充分ではないですか。そのような生活の中でも、如何(いか)に生く可きか、という道を学び実践する楽しみは充分にできるのです。富や地位を、我が信念に悖(もと)る遣り方をして手に入れたところで、そんなものは私にとっては、縁(えん)も縁(ゆかり)もない、遠くの空の浮雲のようなものです。雲はしがみつくこともできないし、確固として頼れるものではないのです。それに私は孫悟空ではないので、どんなに努力をし、修行をしたところで、雲を自在に操(あやつ)れるようにはなれません。孫悟空ですら觔斗雲(きんとうん)唯(たゞ)一つしかよう操らないのですから。雲を得ようとするのは、無益な努力です。』