7 述而第七 16

Last-modified: Wed, 01 Nov 2023 19:33:34 JST (183d)
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☆ 述而第七 十六章

 

 子曰 加我數年 五十以學易 可以無大過矣

 

 子(し)曰(いは)く、我(われ)に数年(すうねん)を加(か)し、五十(ごじふ)にして以(もっ)て易(ひろ)く学(まな)べば、以(もっ)て大過(たいくわ)無(な)かる可(べ)し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 もう数年長く生きることができて、五十歳になるまでもっと広く学ぶことができるならば、その後の人生は大きな災難に見舞われることはないでしょう。

 

☆ 補足の独言

 「易(えき)は同音の亦(えき)の意味である」という説があります。亦は「また」「すべて」「おゝいに」といった意味と読みがあります。それで「易(えき)」を「易(広)く」と読んでみました。

 孔子は、十五歳で学に志してからは、あらゆる学問を広く深く学んできたと思われます。易(えき)も当然確(しっか)り学んできた筈(はづ)です。しかし「論語」を見る限り、この章以外一切易には触れられていないようです。孔子が易を高く評価している証拠がないのです。これを、もっと確り易を学べばよかった、という反省や後悔ととるには無理がある、と思います。晩年になって反省をしているのだとしても、それだったら何等(なんら)の形跡(けいせき)が「論語」の中に残っているでしょう。それに大体、過去を悔やむということ自体が、全く孔子らしくありません。

 孔子は易を、人生の哲理を読み解くものとして高く評価していたのかも知れません。しかし、易本来の占いとしては受け容れてはなかったのではないか、と思われます。

 従来の解釈は、後漢(ごかん)末から三国巍(ぎ)を生きた何晏(かあん)(曹操(そうそう)の養子。曹操の没後、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)に殺される)の書いた『論語集解(しっかい)』(古註)か、南宋(なんそう)の朱熹(しゅき)の書いた『論語集註(しっちゅう)』(新註)のどちらかに基づいている、と言えるようです。

 この二つを見ると、こうなっています。

 

イ〔集解しっかい(古註)〕

 子曰 加我數年 五十以學易 可以無大過矣

 〔読み下し〕

 子(し)曰(いは)く、我(われ)に数年(すうねん)を加(か)し、五十(ごじふ)にして以(もっ)て易(えき)を学(まな)べば、以(もっ)て大過(たいくわ)無(な)かる可(べ)し。

 〔訳〕

 先生が言われました。

 私は既に四十半ばですが、もう数年寿命が与えられて、易を確り学ぶことができたならば、五十を過ぎての人生で、大きな災いに見舞われることはないでしょう。

 〔独言〕

現に孔子は、五十を過ぎてからこれ以上は無いほどの災難に見舞われている訳ですから、この解釈には一寸無理があるように思われます。孔子のことですから、思っただけで実践しなかった、なんてことはあり得ないでしょうから。

 

ロ〔集註しっちゅう(新註)〕

 子曰 假我數年 卒以學易 可以無大過矣

 〔読み下し〕

 子(し)曰(いは)く、我(われ)に数年(すうねん)を仮(か)し、以(もっ)て易(えき)を学(まな)ぶことを卒(おえ)しめば、以(もっ)て大過(たいくわ)無(な)かる可(べ)し。

 〔訳〕

 先生が言われました。

 私にもう数年寿命が与えられて、改めて本腰を入れて易を学び直し、本質まで完璧に理解し終えたならば、その後の人生に於いては、大きな災難を呼んだり巻き込まれたりするようなことは起こらなくなるでしょう。

 〔独言〕

 司馬遷は、何晏の集解(古註)よりも二百年以上前に、『史記、孔子世家第十七』の終の方で、このようなことを書いています。

 孔子は晩年になって易を好み、徹底的に反復熟読した挙げ句にこの言葉を言った、と。 今に伝わっている論語と違って、「五十」という文字が無いそうです。司馬遷は、論語のこの記述を信じて、晩年は易に没頭した、と推測して記載したのではないでしょうか。それがために、孔子は易を重視した、という伝説ができあがってしまったのかも知れませんね。朱熹も全く疑ってはいなかったようです。