7 述而第七 17

Last-modified: Sun, 05 Nov 2023 22:50:48 JST (179d)
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☆ 述而第七 十七章

 

子所雅言詩書 執禮皆雅言也

 

子(し)の雅言(がげん)する所(ところ)は詩書(ししょ)。執礼(しつれい)は皆(みな)雅言(がげん)す。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生は普段は畏(かしこ)まらずにゆったりと寛(くつろ)いでいることが大切だ、と言っています。言葉も同じで、普段は子供の頃から使い慣れている方言を好ましく思って、自分でもそうしておられました。しかし総てがそうではありません。威儀(いぎ)を正すことが望ましい状況や事柄(ことがら)では、必ずそのようにされていました。喩(たと)えて言えば、普段着と礼服をきちっと分けておられたのです。

 先生は、詩と書を詠(よ)むときには、決して普段の話し言葉は使わず、必ず古(いにしえ)からの伝統的な雅(みやび)な発音で以て詠まれていました。そして礼を執(と)る可き状況に於いては、総て雅な言葉と伝統的な作法に徹しておられました。

 

☆ 補足の独言

 恐らく孔子の時代に於いても、詩は書き言葉ではなく、詠唱(えいしょう)して、その声の響きを味わい楽しむものであった、と思います。ですから「詩を雅言(がげん)する」というのは素直に頷(うなづ)けます。礼を執るのは、相手への敬意を示すことですから、これも雅言であることが頷けます。しかし書は如何なのでしょうか。堯(ぎょう)や舜(しゅん)などの先帝達の偉大な業績を畏まって読誦(どくじゅ)する。一般的に想い描かれている孔子像としては、成る程、と思えますが、何か権威主義的な臭いがします。私の想い描く孔子は、上を大切にはするけれど、決して権威主義ではありません。権威主義的な発想の後世の誰かが、多分こうだったのだろう、という小人(しょうじん)的想像で捏(でっ)ち上げたものではないのか、と疑ってしまいます。