7 述而第七 2

Last-modified: Sat, 15 Jul 2023 17:36:29 JST (292d)
Top > 7 述而第七 2

☆ 述而第七 二章

 

 子曰 默而識之 學而不厭 誨人不倦 何有於我哉

 

 子(し)曰(いは)く、黙(もく)して之(これ)を識(しる)し、学(まな)びて厭(いと)はず、人(ひと)を誨(をし)へて倦(う)まず。何(なに)か我(われ)に有(あ)らんや。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 今日は、普段から私が心掛けていることを言いましょう。それは、独り黙って考えて、確(しっか)りと明確になったことを心に明記する、ということです。

 志を同じくする友と楽しく存分に語り合う、ということは何よりも大切なことです(学而第一、一章)。そしてそれ以外のときには、沈思黙考(ちんしもっこう)、自分の思いの中に深く入(はい)り込(こ)んで、その課題が明確になって納得がいくまで考え抜くのです。そして改めてその思いを確認し、自分の心に確りと留め置くようにすることです。

 そのようにしていれば、学ぶということがとても充実して面白くなり、もっともっと学びたいとなる許(ばか)りで、学ぶことが嫌になるなどということは起こりようがないことです。学んだことの意味がよく解るようになり、実際に役に立つから楽しいのですけれども、その楽しみや喜びは、皆と分かち合うことで、もっと大きなものにしたくなります。知らないことや理解できていないことを教わって知ることができたならば、皆がしあわせになれるのですから、教える、という作業も、幾ら時間が掛かろうと、うんざりして諦(あきら)める、等(など)というようなことには決してなりません。その人の役に立てているという充実感で、幾らでも活力が湧いてくるのです。

 静かに深く考え、学ぶ喜びと教える楽しみを、素直に満喫する。それは私にとっては実に自然で何の困難もないことであり、私がしていることというのは、たったそれだけのことなのです。他(ほか)に何か特別のことをしている訳では全くありません。

 このような、たったそれだけの細(さゝ)やかなことが、心の在り方の最も大切な基本になると思います。

 

☆ 補足の独言

 「默(もく)」は、沈思黙考することでしょう。「識(しき)」は「知る」という意味と「記(しる)す」という意味があるそうですが、「黙って知る」ではピンときません。「熟考して理解したことを書き留(と)める」ということでしょう。しかし孔子が、自分で考えたことを文字に書いたとは考え難(にく)いので(述而第七、一章)、「心に確り留(とゞ)める」と理解す可きでしょう。そうすると、「默而識之(もくしてこれをしるす)」は「自分の中で能く考えて明確になったことを心に確り留(とゞ)め置く」と解釈して良いか、と思います。

 この章も弟子を教え導くために述べた言葉でしょう。「默而識之」は大変に難しいことです。確り頑張って精進しましょう、ということでしょう。

 次の「學而不厭(まなびていとわず)」は、学び続けることを厭(いや)がる人が多いから言ったのでしょうね。そして三つ目の「誨人不倦(ひとをおしえてうまず)」。これは、傲慢(ごうまん)な人は自分ができると思って、できない人を軽蔑して、自分の教え方の不味(まず)さを棚に上げて省みず、相手の解りの悪さにうんざりして、あからさまに嫌な顔をしたり手を抜いてえゝ加減にあしらったりする人がいます。解る人が解らない人を助けるということは、人を大切にする思い遣りであり、礼の基本です。

 「何有於我哉(なにかわれにあらんや)」は、「何か私にあるとでも言うのか、ある筈がない」という意味になるのでしょうが、砕(くだ)けて言うと「私には何でもないよ」ということでしょう。「遣(や)ればできる」という、孔子の弟子達に対する信頼と励(はげ)ましの愛情ではないでしょうか。

 この章は、この三つを並べて「私にはそのようなことは何でもないことだよ」と教え諭(さと)しているようにも思えます。また、「默而識之」は後世の儒者が付け加えたもの、という説もあるそうです。それで敢えて、「學而不厭」と「誨人不倦」の二つは、「默而識之」から出てきた一繋(ひとつな)がりのもの、と捉(とら)えて訳してみました。