7 述而第七 22

Last-modified: Tue, 05 Dec 2023 23:48:52 JST (149d)
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☆ 述而第七 二十二章

 

 子曰 天 生德於予 桓魋其如予何

 

 子(し)曰(いは)く、天(てん)、徳(とく)を予(われ)に生(くだ)ぜり。桓魋(くわんたい)其(そ)れ予を如何(いか)にせん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 宋(そう)の司馬桓魋(しばかんたい)に襲われたとき、その凶暴さに皆は死の恐怖に囚われて慌てふためき大騒動になりました。独り泰然(たいぜん)としていた先生は、皆を落ち着かせるために言いました。

 私には天から授(さづ)かった使命があります。それは文王(ぶんのう)と周公旦(しゅうこうたん)によって整えられた礼を復活することでこの世を安定させることです。それを成すために天は私に徳を授けたのです。桓魋は能く調べもせずに私を仇(かたき)と思い込んで襲ってきました。そのような輩(やから)が、天の命を授かっている私をどうこうできる訳がありません。何も心配することなどありませんよ。

 

☆ 補足の独言

 桓魋が何故(なぜ)孔子を襲ったのか。その理由は全く解っていないようです。司馬遷『史記』の『孔子世家』に拠(よ)ると、孔子一行が衛から宋に行ったときの出来事となっていますが、晩年魯に帰ってから、という説もあるようです。

 後者の説で考えてみますと、桓魋の弟である司馬牛(しばぎゅう)は、孔子の弟子になりましたが、どうも兄桓魋を嫌っていた節(ふし)があります。この兄弟は性格が正反対だったようです。どちらも能力は大変高かったようですが、兄桓魋の方は我が強く行動的で派手好きだったように思えます。それに対して弟司馬牛は、冷静で深く物事を考える内向型人間だったのかも知れません。『史記』の『仲尼弟子列伝第七』に拠ると、口が軽く軽率であったようですが。この兄をこの弟が嫌がって逃げ回るのも分かる気がしますが、兄の方は、この大人しくて賢い弟を強く愛していたのでしょう。ところが弟の方は兄を避けて魯に逃げ込みます。そして孔子の下(もと)に行った後(あと)、不審な死を迎えてしまいました。弟思いで単純な桓魋は、孔丘(こうきゅう)とその一味が弟を殺した、と思い込んで、「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」と許(ばか)りに襲ってきたのかも知れません。