7 述而第七 24

Last-modified: Tue, 19 Dec 2023 10:22:10 JST (136d)
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☆ 述而第七 二十四章

 

 子以四教 文行忠信

 

 子(し)、四(よつ)を以(もっ)て教(をし)ふ。文(ぶん)・行(かう)・忠(ちゅう)・信(しん)。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生の教えを受けた弟子の一人が、このようなことを言っていました。

 先生は私達を教えるのに、四つのことを基本に据えて話しておられました。それは、作業としては古典を確りと学ぶこと、そしてその実践を怠りなく励み続けることです。そして心構えとしては、他者(ひと)に対して思い遣りをもって誠実であり、他者から信頼される基本となる、責任を全うする意志を確立することです。

 また別の弟子はこう言っていました。

 先生は私達を教えるのに、二つのことを基本に据えて話しておられました。それは、忠恕(ちゅうじょ)、乃ち自分の衷心(ちゅうしん)に正直に誠意を尽くし、他者(ひと)を慈しみ思い遣り受け容れることです。(里仁第四、十五章)

 またこのように言う弟子もいました。

 先生は私達を教えるのに、唯(たゞ)一つのことを基本に据えて話しておられました。それは、仁、相手の為を深く考え抜いた思い遣りである、と。

 先生は何時でも、質問をしたその人にとって大切で必要なことしか言われませんでした。ですから同じ人が同じ質問をしても、その状況に応じて答えは違っていたのです。

 先生の言われたことを、状況を無視して絶対視しては間違いが起こりかねません。常に、先生の言われたことの意味、その奥の理由や気持ちを能く能く考えねばならないのです。

 この四つのこと、というのも、正しいことだけれども、何時でもそれが当て嵌(は)まるとは限らない、それはその時のその弟子に対して必要なことを言っただけだから、ということを忘れないように気を付けて下さい。

 

☆ 補足の独言

 言葉は生きています。その発せられた状況と関わる人々の心情が、その言葉の生命(いのち)なのです。その生存環境から切り離されて標本として整理されたものを辞典とか辞書と呼びます。そこに載っている言葉は、図鑑の絵や写真のようなもので、生(なま)の生きた言葉ではありません。そこを勘違いすると、言葉は僵尸(きょんしー、きょうし)やゾンビ(Zombie)となって蘇(よみがえ)り、生きた世界を滅茶苦茶に破壊しかねません。

 どうしてそんなこと、生きた言葉と僵尸(キョンシー)を混同することになるのか、というと、生きて動いているものは捉え悪(にく)いからです。生きた言葉は、前後の文脈と背景の中で、それらを丸ごと捉えなくてはなりません。乃ち生きた真実というものは、常に流動的で曖昧模糊(あいまいもこ)としているのです。それを、言葉だけを切り離して意味を考える、というのは、写真や絵を拡大してじっくり見る、というようなものです。能く解った気になりますが、生命活動の特徴である動きがないのです。それを忘れて錯覚して混同すると、ゾンビになるのです。

 この章でも、「四つ持って教う」と言われると、そこだけが目立って目に入って、この四つが特別に重要なものだ、という錯覚に陥ってしまうようです。

 辞書は言葉を正確に理解するための解剖図のようなものです。言葉を正しく正確に理解する為に、なくてはならないものですが、それは死体の解剖図であって、生体の解剖図は描(か)けない、ということを知っていなければなりません。生きた言葉を理解するためには、解剖図から生命活動の躍動を確りと想起できる想像力が必要なのです。