7 述而第七 25

Last-modified: Sat, 23 Dec 2023 21:39:17 JST (131d)
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☆ 述而第七 二十五章

 

 子曰 聖人吾不得而見之矣 得見君子者 斯可矣

 子曰 善人吾不得而見之矣 得見有恆者 斯可矣 亡而爲有 虚而爲盈 約而爲泰 難乎有恆矣

 

 子(し)曰(いは)く、聖人(せいじん)は吾(われ)得(え)て之(これ)を見(み)ず。君子者(くんししゃ)を見(み)ることを得(え)ば、斯(ここ)に可(か)なり。

 子曰く、善人(ぜんにん)は吾得て之を見ず。恒(つね)有(あ)る者(もの)を見ることを得ば、斯に可なり。亡(な)くして有(あ)りと為(な)し、虚(むな)しくして盈(み)てりと為(な)し、約(やく)にして泰(ゆた)かなりと為す。難(かた)いかな恒(つね)有(あ)ること。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る時、先生が言われました。

 私の夢は、もっともっと勉強して、私自身が完璧な人格の立派な人間になることです。そのために、あらゆる文献を徹底的に読んできましたし、沢山の人達にお会いしてきました。そのようにしてきて思うことなのですが、古(いにし)えの堯(ぎょう)や舜(しゅん)のような聖人と呼べる完璧な人とは、会いたくても会えるものではないのだなあ、と実感しています。でも、例えば鄭(てい)の子産(しさん)や斉(せい)の晏嬰(あんえい)のような、私(わたくし)を投げ出して民と国を守った立派な人達にお会いすることはできました。それはとても嬉しくもあり楽しいことでしたね。私もその人達のようで在りたいと願っているのです。

 先生はまた、このように言われたこともありました。

 何でも完璧に熟(こな)せる優秀な人には未(いま)だに出会ったことがないですね。私もそうありたいので、是非そのような人にお会いしたいのですけれど。唯、そのような善き人になるためには、正直に自分を曝(さら)け出して、徹底的に自分を鍛えて熟練する必要があります。誤魔化すことなくそういった努力ができている人は心が安定しています。そのような人は希(まれ)にいますから、出会えたときには矢張りとても嬉しいですね。しかし大抵の人は、なくしたものをあるように見せかけたり、自分の中が空っぽなのに一杯詰まっているように見せかけたり、貧乏で苦しいのに生活にゆとりがあるように見せかけたり、と見栄(みえ)の嘘はったりで誤魔化しているばかりで、その所為(せい)で心が不安定に揺れ動いて定まることができません。それにしても、心を安定させることの何と難しいことよ、と熟々(つくづく)思いますね。

 

☆ 補足の独言

 孔子が他人を貶(けな)して、情けない奴等だと嘆く文章が能く出てきますが、それらは皆後世(こうせい)の偽作と見て間違いない、と確信しています。何故なら、若し孔子がそのような小人(しょうじん)、心の狭い人であったならば、弟子達がこのような語録を伝えようとする訳がない、と思うからです。

 「子曰」が二度出てくるのは、同じような意味の言葉を別の機会に言ったことを一つに纏めたからだ、という荻生徂徠(おぎゅうそらい)の説に従いました。そして、「聖人」と「善人」が同列の理想、「君子者(くんししゃ)」と「有恆者(ゆうこうしゃ)」が同列の実在の最高位、と理解してみました。

 「善人」は心の善き人ではなく、能力の善き人、乃ち優秀な人、と理解しました。そして「有恆者」常有る人というのは、嘘がないから心が安定して揺るがない人、と理解しました。