7 述而第七 26

Last-modified: Sat, 30 Dec 2023 20:08:40 JST (124d)
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☆ 述而第七 二十六章

 

 子釣而不綱 弋不射宿

 

 子(し)は釣(つり)すれども綱(かう)せず。弋(よく)すれども宿(ねどり)を射(ゐ)ず。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 こんなことを言った人がいます。

 先生は釣りをするときに、一匹づゝ釣る普通の釣り方はされましたが、延縄(はえなわ)のような沢山の魚(うお)を一度に獲(と)る方法は用いられませんでした。また鳥を獲るときには、飛んでいる一羽を弋(よく)、いぐるみという糸のついた矢で獲ることはされましたが、巣で休んだり眠ったりしている鳥を射ることは決してされませんでした。あゝこれこそが仁の姿であり礼の精神なのだなあ、と感動しました、と。

 しかし、先生の説かれる仁や礼は、人に対するものです。子貢が吿朔(こくさく)の伝統儀礼のための生贄(いけにえ)の羊を贈ることを、もう形骸化していて意味がないから、と廃止したときも、賜(し)(子貢)は羊を惜しむか、私は伝統的な礼が失われて消えてしまうことをこそ惜しむ、と反対されています。(八佾第三、十七章)また厩(うまや)が火事になったとも、当然のことながら、先づ人を思い遣っています。(郷党第十、十二章)

 漁師が生活のために延縄を用いることは当然のことです。漁師ではない先生が延縄を用いないのも当然のことではないでしょうか。先生は不必要な殺生はなされなかったでしょうが、それは仁とか礼といった大仰(おゝぎょう)なものではなく、努力以前の先生の思い遣り深い人柄(ひとがら)の表れだと思います。

 先生のことを能く知らず、仁や礼も能く解っていない人が、浪漫的(ロマンチック)な幻想から想像したことなのではないでしょうか。

 

☆ 補足の独言

 何で態々このような文章を載せたのか。何か引っ掛かるものがあって、素直に理解して訳すことができませんでした。慾どしい人だったら、少しでも沢山獲ろうとするだろうし、楽に獲れたならば、占(し)めた儲(もう)けた、と喜ぶことでしょう。しかし然(そう)ではない人も幾らでもいるのではないでしょうか。少し心の優しい人であれば当たり前のことではないのか、という引っ掛かりです。それでこんな訳になってしまいました。