7 述而第七 29

Last-modified: Fri, 12 Jan 2024 21:46:52 JST (112d)
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☆ 述而第七 二十九章

 

 子曰 仁遠乎哉 我欲仁 斯仁至矣

 

 子(し)曰(いは)く、仁(じん)は遠(とほ)からんや。我(われ)仁を欲(ほっ)すれば、斯(ここ)に仁至(いた)る。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 私達が理想とし、到達しようと努力精進している、思い遣りの深い広い心というものは、遙か彼方の、中々手の届かないような処にあると思いますか。だとしたら、とんでもない間違いですよ。思い遣りは自分の心の中にあるのです。どんな人でも心は自分の中に、自分と一緒に居てくれているのです。ですから誰でも、思い遣り深くなろうと決意して、心がその気になって行動すれば、思い遣りはそこに姿を現してくれるのです。

 

☆ 補足の独言

 これが本当に孔子の言った言葉だとするならば、一般に言われているように、初学者が絶望して止(や)めてしまわないように説(と)き聞かせた言葉、ととるのが自然な感じがします。しかし若しかしたら、実践を積み重ねている上級者に対して言われた言葉かも知れないな、とも思われます。生まれつき仁が実践できる優秀な能力を有(も)っている者だけが到達可能なような、普通の者には手の届かない高嶺(たかね)の花などではないのですよ。仁は総ての人の心の中に必ず有るのです。その気になって実践すれば、誰でも仁者なのです。仁は自分の中に有るのですから。その気になったならば、そこにはもう究極の仁が現れているのです、と。

 同じようなことが、仏教でも言われています。

 『華厳経(けごんきょう)』に「初発心(しょほっしん)の時、便(すなわ)ち正覚(しょうがく)を成(じょう)ず」とあります。「発心」というのは、「この上なく正しい目覚めに向かう心を起こす」という意味だそうです。初めて覚(さと)りたい、この現実で苦しんでいる人々を救いたい、という気持ちを起こしたときに、既にその覚りは成就(じょうじゅ)しているのだ。であるから、始めに正しい気持ちを起こすことが最も大切なことなのだ、ということらしいです。

 同じことを「発心即到(ほっしんそくとう)」とも言います。そして、釈迦(しゃか)の最後の言葉は「怠(おこた)ることなく励(はげ)めよ」だそうです。成就したから善し、ではないのですね。成就してからの倦(う)まず弛(たゆ)まぬ徹底的な努力が大切なのです。サボったらお終い、元の木阿弥(もくふみ)です。元の駄目な状態に戻ってしまわないようになることを「不退転(ふたいてん)の境地」と言いますが、そんな安定した境地など在る訳がありません。不退転は、意志、決意、緊張の緩むことのない持続を言うのです。それが「怠ることなく励めよ」という遺言(ゆいごん)なのでしょう。

 孔子は「仁」という言葉で、同じことを伝えたかったのではないでしょうか。仁は直ぐ傍(そば)にあるのだから安心して学びなさい。そして、倦むことなく学び続け、実践し続けるだけで善いのですよ、と。

 それと、仁者になるのは生まれつきの資質ではなく、実践すれば誰でも成(な)れる、ということでは、これも釈迦の言葉に「生まれによってバラモンとなるのではない。行いによってバラモンとなるのである」とあります。バラモンというのは、印度の社会で最も位の高い人、高貴な人、尊敬す可き立派な人、という意味です。孔子の言う仁者と同じと捉えて良いのではないかと思います。