7 述而第七 30

Last-modified: Sat, 13 Jan 2024 13:33:05 JST (105d)
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☆ 述而第七 三十章

 

 陳司敗問 昭公知禮乎 孔子曰 知禮 孔子退 揖巫馬期而進之曰 吾聞 君子不黨 君子亦黨乎 君取於呉 爲同姓 謂之呉孟子 君而知禮 孰不知禮 巫馬期以告 子曰 丘也幸 苟有過 人必知之

 

 陳(ちん)の司敗(しはい)問(と)ふ、昭公(せうこう)礼(れい)を知(し)れりやと。孔子(こうし)曰(いは)く、礼を知れりと。孔子退(しりぞ)く。巫馬期(ふばき)を揖(いう)して之(これ)を進(すす)めて曰く、吾(われ)聞(き)く、君子(くんし)は党(たう)せずと。君子も亦(また)党するか。君(きみ)、呉(ご)に取(めと)りて、同姓(どうせい)為(た)り。之(これ)を呉孟子(ごまうし)と謂(い)ふ。君(きみ)にして礼を知(し)らば、孰(たれ)か礼を知らざらんやと。巫馬期(ふばき)以(もっ)て告(つ)ぐ。子曰く、丘(きう)や幸(さいはひ)なり。苟(いやし)くも過(あやまち)有(あ)れば、人(ひと)必(かなら)ず之(これ)を知る。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 陳国(ちんこく)の法務大臣は、中々に根性の悪い人だったみたいです。この法務大臣が先生に質問しました。

 お宅の前君主だった昭公(しょうこう)殿は礼を弁(わきま)えておられるお方でしたかな。

 ははあ扨(さて)は、と思った先生は、さらりと答えました。

 昭公は礼を知り弁えていましたよ。

 それだけ言うと先生はさっさと出て行きました。

 法務大臣は根性悪(わる)だけあって、安定した先生の迫力に気圧(けお)されて、正面切っては何も言えず、出て行く先生を留(とゞ)めることも得(よう)しませんでした。こういう人は、下っ端の者に対しては居丈高に強く出るものです。先生に付いてきていた弟子の巫馬期(ふばき)を呼び止めて慇懃(いんぎん)に挨拶をし、「近こう寄れ」と声をかけて言いました。

 私はこのように聞いておるのですがねえ。君子と言われるような立派な人は、誰に対しても分け隔てなく公平に対処し、決して身贔屓(みびいき)で仲間内の不正を隠すというようなことはしない、と。ところが、君の先生は君子として名高い人なのに、どういうことなのでしょうかねえ。果(は)て扨(さ)て。君子であっても身贔屓をするのか、と大変驚いているのですよ。と言うのはですねえ。魯国(ろこく)の殿さんであった昭公殿は、呉の国のお姫(ひめ)さんを娶(めと)りましたよねえ。しかし、魯の国も呉の国もどちらも周(しゅう)の末裔(まつえい)で、共に姓は姫(き)です。周の礼法では同姓の婚姻は許されません。それを誤魔化すために、呉姫(ごき)(呉の姫姓の女(ひと))或いは孟姫(もうき)(姫姓の長女)と呼ぶ可きところを、子(し)姓の宋(そう)の国から娶ったように見せかけるために、孟子(もうし)(子姓の長女)と呼んでいます。巷(ちまた)では呉孟子(ごもうし)(呉の宋の長女)と呼ばれているようですね。礼を失するにも程(ほど)があるのではありませんか。これで昭公殿が礼を知っていると言うのであれば、世の中、礼を知らない人など誰もいない、ということになるのでは御座いませんかねえ。

 巫馬期はその儘(まゝ)この大臣様のお言葉を先生に伝えました。予想通りのことでもあり、先生は全く動じる風もなく、柔(にこ)やかに笑って言われました。

 仰(おゝ)せご尤(もっと)も。それにしても、私は果報者(かほうもの)ですね。有り難いことです。若しも私が間違っても、誰かが必ず見てくれていて、その間違いを訂正してくれます。これ以上喜(よろこ)ばしい安心なことがありましょうか。

 以上のような話を聞いて、私は礼の奥深さと、先生の慧眼(けいがん)に感動しました。

 礼に於いては、目上の者を悪し様に言ってはいけない、ということをこの法務大臣は知らなかったようですが、そのお粗末な彼に対しても恥を搔かせないために、教えてくれて有難う、とお礼を言う先生。しかし彼の言うことを認めて我が殿を非難するということは決してしない先生。これが本当の礼なのですね。

 

☆ 補足の独言

 この章は、「過(あやま)ちては則ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。(学而第一、八章)」の実例のようにも見えますが、そうではない、と思います。私の勝手解釈では、孔子は間違っていないからです。礼は複雑微妙な対人関係です。一面だけから見て、あれが正しいこれが間違っている、と言えるような単純な解答のあるものではありません。その一番の基本は、相手への思い遣りです。この大臣は、同姓婚は礼に反している、という一点だけで、昭公を否定し孔子を否定しています。そして正義の自分が鬼の首を取ったかのように鼻息荒く(幼い少年のように可愛らしく)、巫馬期に対して誇(ほこ)っているのです。礼は謙虚です。それはどんな相手に対しても敬い思い遣るからです。

 禅宗では、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師の言葉に「喫茶去(きっさこ)」というのがあります。私の理解では、善悪も上下も好き嫌いも全く関係なく、面前の人総てを敬い思い遣って「お疲れでしょう。さあ寛(くつろ)いでお茶を飲んで一息入れて下さい」という意味だと思います。

 好きな人にも嫌いな人にも、役立つ人にも邪魔な人にも、能力や実力の有る無しにも全く関係なく、敬意と愛情をもって接することの困難さや如何(いかん)。これこそが礼の真髄なのです。孔子はこの失礼な大臣に対しても、全面的に受け容れて、彼への思い遣りの心で接しているのです。

 伊藤仁斎(いとうじんさい)は『論語古義』の中で、「君子の過(あやまち)は、日月(じつげつ)の食(しょく)の如(ごと)し。過つときは人(ひと)皆(みな)之(これ)を見る。更(あらた)むるときは人皆之を仰(あふ)ぐ。(子張第十九、二十一章)」という子貢(しこう)の言葉を取り上げて、「君子も過ちをする。それが生きている人間の素晴らしさだ。素直に認めて修正する孔子の何という偉大さよ。正に仰(あお)ぎ見る日月(じつげつ)の如しだ」と言っていますが、それでは却って孔子像を矮小化してしまうように思います。子貢の言葉は実に壮大で恰好良いですが、だから中身が薄くなってしまうのだ、と仁斎先生も子貢と一緒に叱られてしまいそうに思うのですが・・・

 ごちゃごちゃ書きましたが、実はこの文章も後世の捏(でっ)ち上げらしいです。ですから以上は、これが若し史実であったなら、という前提で私はこう解釈したい、ということです。実際の話だとしたらこのように理解することで、私の懐(いだ)いている孔子像と親和してくれます。