7 述而第七 9
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☆ 述而第七 九章
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子食於有喪者之側 未嘗飽也 子於是日哭 則不歌
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子(し)、喪(も)有(あ)る者(もの)の側(かたはら)に食(しょく)するときは、未(いま)だ嘗(かつ)て飽(あ)かず。子、是(こ)の日(ひ)に於(おい)て哭(こく)すれば、則(すなは)ち歌(うた)はず。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
今日は、私の見た先生の姿をお伝えしたいと思います。
先生自身は、このようなことは一言も言われませんでした。先生の傍(はた)に居ると、何時もそうなのでそれと解る、というだけのことです。
一つは、先生は喪中(もちゅう)の者と食事を共にするときには、決して腹一杯は食べることをしない、ということです。その人に失礼だから食べるのを我慢して哀悼(あいとう)の意(い)を示すのが礼儀である、ということではありません。そうであれば、言葉で以てその作法を指示していたことでしょう。
先生にとって本当に大切なことは何時でも、自分の心の在り方なのです。先生は自分の心の状態がその儘(まゝ)直ぐに身体(からだ)に表れる体質の人だったようです。「韶(しょう)を聞くこと三月(さんげつ)、肉の味を知らず。(述而第七、十三章)」という話も聞きます。
先生は、肉親を亡くした悲しみと心の痛みで一杯の人と共に居ると、その心情がその儘共振されて、食べ物も喉を通らなくなる、というようになってしまっている、と見受けられます。これは決して礼の形ではなくて、これこそが礼の心そのものなのです。
もう一つは、告別式に出席して哭(な)いた日は、その日一日決して歌を歌ったり詠じたりはされなかった、ということです。
葬式で慟哭(どうこく)するのは礼の儀式です。皆さん大抵は、死者の前でできるだけ華やかに大声で大泣きをし、その場を退出するとケロッと普段の表情に戻っています。合理的とも言える美事な切り替えです。
先生は決してそうではありませんでした。先生は誰の葬儀であろうとも、その死者に向かったときには、亡くなられた人の辛さ無念さを心底感じ取って、本当に哭(な)いておられたのです。
死は誰にとっても最も大きな出来事です。現実の用事を優先して気持ちを切り替えるというようなことが許される道理がありません。ですから、その日一日はその死者のために、自分の時間を捧げておられたのです。死者を蔑(ないがし)ろにして自分の都合で気持ちを切り替えるなどということは決してなさらなかったのです。
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☆ 補足の独言
孔子の基本姿勢には、母である顔徴在(がんちょうざい)から受け継いだ巫祝(ふしゅく)、巫女(みこ)の精神が流れているように思われます。死や魂(たましい)を大切にする心です。これは一歩間違うと、迷信や妄想に陥ってしまう危険の非常に高いものです。孔子はこの点に非常に慎重だったようです。弟子には迷信妄想に陥らないように戒め、何が大切かが能く解っている自分は喜んで鬼神に近づき楽しんでいたようです。(雍也第六、二十章。八佾第三、十二章参照)